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《ブラジル》県連故郷巡り=「承前啓後」=ポルト・ヴェーリョとパウマス(5)死んだ母の胸元で泣く赤子

4/8(土) 6:45配信

ニッケイ新聞

 二日目の3月18日朝、南緯9度、ほぼ赤道直下らしいジリジリと焼けるような日差しになった。慰霊法要をするため、一行はバスで移住地の墓地へ向かった。
 幹線道路から移住地の道にはいると、すぐに泥道に。田辺さんに聞くと「今は雨期の真っ最中。大雨降ったらこんなバスは入れないよ」とのこと。今でこれなら、63年前はさぞや酷かったに違いない。
 墓碑をざっと見ると、軽く20人以上は埋葬されている。最初は日本人だけだったので、手前4列は日本名が並ぶ。
 世界救世教のエドゥアルジ・デ・ソウザさん(39)が、先祖供養の慰霊ミサを取り仕切った。「ここに眠る皆さんは疲れを知らず、ブラジル発展のために命を捧げた」と祝詞をあげると、一行に一輪挿しの生け花を渡し、墓石に献花した。2年間日本に留学した経験もあるソウザさんによれば、ロンドニア州全体で信者は500人ほどおり、ほとんどがブラジル人だという。
 田辺さんは、父親の立派な墓石の手前に置かれた丸石を指し、「最初はこのへんの丸石に自分たちで名前を刻んだ。後からサンパウロに注文して立派な墓石を持ってきたんだ」と説明した。
 1964年にセアラ―州人60家族が入植してすぐ隣にビソウザ移住地ができ、彼らも埋葬するようになった。現在は環境局から使用禁止にされ、新規埋葬はない。
 9月13日移住地の日本人墓地には、田辺家の墓地もある。墓石が並ぶ様子を見ながら、田辺さんは「僕はまだ小さかった頃、マラリアにやられて死んだお母さんの胸元で、お乳を求めて赤ちゃんが泣いていた姿を見たのが、今でも目に焼き付いている」としみじみと思い出した。
 以前、平野植民地でまったく同じ母子の悲劇を聞いたことを思い出した。入植から半年で80人がマラリアの犠牲者となったところだ。まるで1915年と同じ光景が、終戦から10年以上たったアマゾンで起きていた。
 100年前であれば、熱帯特有の病気の知識が普及していなかったのは仕方ないとしても、どうして戦後まで――。
 ふと、『グヮポレ移民50年史』の掲載された移民募集要項(22頁)を読み返して、目を丸くした。「植民地の概況」には《マラリアは一掃されており、その他の風土病もない》と明記されている。移民送り出しを担当していた海外協会連合会や総領事館は、どうして確かめもせずに、こんなウソを書いたのか…。
     ☆
 田辺さんは80年代に農業が行き詰まり、町に出て不動産業を始めた。その傍ら、22年間に趣味で光日本語教室を始めた。
 1983年にBR364がアスファルト舗装されると、サンパウロまでの物流が生まれ、町が生まれ変わった。
 「サンパウロやパラナから若い日系人が街道沿いにたくさん入植して大農場をやるようになった。町でも日系人の姿をよく見るようになり、次第に挨拶するようになって、週末に集まって飲むようになった。それなら、みんなで団体作ろうじゃないかとなった。それで僕も発起人の一人となって、1994年12月11日にロンドニア日伯文化協会ができた」。
 町の発展と共に移住地の自治会から、町の日系団体へと日系社会の軸足が変わっていった。(つづく、深沢正雪記者)



□大耳小耳□関連コラム
     ◎
 連載『「グァポレ移民」50年』第6回(2004年8月6日付、古杉征己記者)を読んでいたら、竹中芳江さんの母房江さんの話が出ていて、ハッとした。《内助の功を尽くしてつくった携行資金は、百万円。コロニアで最高額だった》とある。携行資金の多かった竹中家は3年半でサンパウロへ出た。「出るに出られない人が残った」という田辺さんの言葉がズシンと響いた。とはいえ、聖市に出たら出たで、結局は資金が底をついて大変だったと聞く。「ラクな移住はない」との教訓は、今もまったく同じ重みをもっている。

最終更新:4/8(土) 6:45
ニッケイ新聞