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『中動態の世界 意志と責任の考古学』善でもなく、悪でもない。あいまいさを語る幻の文法

4/11(火) 10:01配信

HONZ

深く関わりたくないと思う問題の多くは、善悪二元論に陥りがちなものばかりである。豊洲は安全なのか、そうでないのか。忖度はあったのか、なかったのか。唐揚げにレモンはアリなのか、ナシなのか…。議論を単純化すればするほど、問題は本質から遠ざかる。それなのになぜ人は、かくも簡単に二元論に陥ってしまうのか?  答えを解く鍵は、文法にあった。

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通常、我々が親しんできた文法の区分けは、能動態と受動態の二つである。これは全ての行為が「する」か「される」かのいずれかに配分されることを求めるが、前提として意志の概念が存在する。良きにせよ、悪きにせよ、自らの意志で行った行為であればそこに責任が伴うため、善悪の判断の基準になるのだ。

しかし、かつて能動態でも受動態でもない「中動態」なる態が存在していたという。本書は、ある日忽然と姿を消してしまった中動態の足跡をミステリーさながらに辿り、中動態が存在した時代の世界観を鮮やかに可視化させた一冊だ。文法上の違いによって思考の可能性がどのように変わりゆくのか、まざまざと体感することが出来るだろう。

中動態とはかつてのインド=ヨーロッパ語族(現在の英独仏露語のもと)に、あまねく存在していた態である。プラトンやアリストテレスが活躍した古代ギリシャ時代では当たり前のように存在していたし、サンスクリット語にも同種の文法は見られるそうだ。

たとえば無意識に沸き上がってくる、喜怒哀楽のような感情表現を考えてみれば分かりやすい。「私は喜ぶ」とよく言うが、自らの意志で喜んでいるかどうかはあくまでも状況に依存する。何か喜ばしい状況が起こって自然に感情が発生したのであれば、これを能動態に分類するのは無理があるかもしれない。一方、誰もが悲しむような状況にもかかわらず喜んでいるということであれば、それは意志ある能動態に分類されることもあるだろう。

この他にも「謝る」「仲直りする」など、相手と心が通じて初めて成立する行為も「する/される」だけで分類することは難しく、中動態の概念に含まれるそうだ。いずれにせよ、能動態と受動態という分類では少し窮屈を強いられることが見えてくる。

この中動態、かつては能動態と対立する形として存在しており、受動態は中動態の派生から生まれたものに過ぎないという。にもかかわらず、能動態と受動態によって構成される現代のパースペクティブから観察したのでは、なかなか本質に到達しえない。同じ能動態であっても、対比の相手が受動態の時と中動態の時では意味も変わる。つまり文法が違うということは、世界観そのものが違うということなのである。

著者は二つの世界を丹念に行き来しながら、能動態と中動態が対立する世界を復元していく。この対立によって見出だされるのは、主語が動詞によって示される過程の外にあるか内にあるかの違いである。要は能動態と受動態の対立がつくり出す「する/される」とは別の対立があり、そこでは意志の観念が前景化しないのだ。

さらに能動性と中動性の対立に権力というものを加えてみると、話はなお面白くなる。権力によって行為させられる側は、行為のプロセスの内にいるわけだから、あくまでも中道的である。このように強制ではないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している、そうした事態は日常に溢れている。これなど、まさに「忖度」をめぐる問いかけと捉えることも出来るだろう。

興味深いのは、古代ギリシャにおいて中動態の存在と意志概念の不在という、二つの現象が同時に見られたことである。ならばなぜ、中動態が姿を消すことになったのか?  著者は様々な文献をつなぎ合わせ、この「ミッシング・リンク」へ挑んでいく。そして言語が、出来事を描写するためのものから行為者を確定するものへと移行していく歴史の中で、中動態が抑圧されたことが明らかになる。

要は中動態という補助線を引くことにより、我々が「自由」や「意志」のサイズを錯覚し、今まさに現実離れしたパラレルワールドに立っているかもしれないと気付かせてくれるのだ。「自らの意志で道を切り開いていくことが自由」という考え方は大きな誤解であり、むしろそう思い込むことがいかに不自由であるかということを示している。

この論点を「ケアをひらく」というシリーズ内に収めたことも秀逸な視点だと思う。アルコール依存症や薬物依存症の問題は、本人の意志だけではどうにも解決できないのだが、周囲に正しく理解されないことも多い。これを回避するための術が、この中動態という概念の中に眠っているかもしれないというのだ。まさに精神医学の観点からも、有用性が期待されていると言って過言ではない。

中動態というテーマについて考えることは、現代的な問題に対して驚くほどタイムリーな視点を提供してくれる。だが同時に、古代エジプトにおいても、平安時代においても、中世ヨーロッパにおいてもタイムリーだったと思えるような普遍性を持っているだろう。

本書では、哲学そのものが中動態を抑圧することによって自らを構成した可能性が示唆される。かつて自らの手で封印していながら、時を経て中動態を再発見したわけだから、考えようによっては哲学の壮大なマッチポンプと解釈することも出来るかもしれない。しかし一見無駄に思える行為の中にも有用性を見出せること、この点に哲学の面倒臭さと魅力の双方が感じられ、読み終えるのが名残り惜しいほどであった。

内藤 順

最終更新:4/11(火) 21:16
HONZ

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