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《ブラジル》県連故郷巡り=「承前啓後」=ポルト・ヴェーリョとパウマス(8)枕木一本に一死体、死の鉄道

ニッケイ新聞 4/13(木) 7:15配信

 ポルト・ヴェーリョ地方紙「ジェンチ・デ・オピニオン」電子版、07年10月12日付に《カンデラリア、忘れられた英雄たちの墓場》との見出しの記事を見つけた。
 いわく《セントロから2キロにある神聖な歴史を持つカンデラリア墓地は、ほぼ一世紀の時流れの中で忘れられ、失われ、なかば雑木林に埋もれているが、彼はまだそこにいる。すべての大陸、22カ国からやってきた1593人の労働者は、マデイラ・マモレ鉄道建設のためにアマゾンの大自然と闘い、そこに埋葬されている。
 たぶん、地球上で同じ様な墓地は存在しない。そこは一種の『死の国連』の様相を呈している。スペイン人、アンティル人(カリブ海のオランダ領)、ポルトガル人、ギリシャ人、ボリビア人、イタリア人、ヴェネズエラ人、コロンビア人、中国人、トルコ人、ペルー人、バルバドス人(カリブ海)、ドイツ人、フランス人、英国人、オーストリア人、アラブ人、ロシア人、プエルトリコ人、日本人、デンマーク人らマデイラ・マモレ鉄道会社が建設工事のために世界中から呼び集めた外国人労働者たちだ》とある。
 建設労働者のために作られた、当時最新鋭の設備を誇った同病院の脇に墓地が開設されたのは1907年。鉄道が開通した1912年まで、外国人だけを埋葬した。《工事終了とともに大半の外国人は立ち去り、墓地はそのまま残された。1593人の埋葬者はカンデラリア病院の監察医が統計資料を残している》とあるから、日本人がいたことは間違いない。
 笠戸丸前後に鉄道工事が行われたことから考えると、ペルー移民がアマゾン下りをしてきたと考えるのが、一番あり得る想定だ。ペルー移民は1899(明治32)年に森岡商会によって始まり、南米への第1回移民船となった「佐倉丸」には790人が乗り組み、ペルーのカヤオ港に降りた。最も古い南米移民団であり、新潟・山口・広島出身者が多かった。ポルト・ヴェーリョで埋葬された人もその一人だったかもしれない。
 『西部アマゾン日本人移住70周年記念誌』(同編纂委員会、1999年)には《当時(1900年頃)ボリビア領コビバには約百人、リベラルタには二百人近くの日本人がいた》(同8頁)、さらに《一八七二~一九一二年、ロンドニア州マデイラ~マモレ鉄道工事にペルー下りの日本人労働者が従事したが、記録はない》(326頁)との記述もある。とすれば、同墓地の埋葬記録は貴重な資料だ。
 同墓地に埋葬されているのは22カ国の外国人だが、ウィキぺディアの同鉄道項によれば「50カ国から2万人の外国人が働きに来た」とある。同市からボリヴィア国境の町グァジャラ・ミリンまで366キロを工事するのに6年間かかり、マラリア等の熱帯病で6千人が死んだと言われる。ただし死者数は1万人超まで諸説ある。
 同病院の統計で、外国人だけで約1600人が死亡したことを考えれば、国内労働者を入れて6千人当たりが妥当なところかもしれない。それゆえ「枕木一本に死体一つの『死の鉄道』」と呼ばれた。そんな場所に戦後、日本人を入れたのだと思うと、ため息が出た。(つづく、深沢正雪記者)

最終更新:4/13(木) 7:15

ニッケイ新聞