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浅田真央 亡き母・匡子さんと二人三脚で歩んだフィギュア人生

東スポWeb 4/14(金) 11:00配信

 バンクーバー五輪フィギュアスケート女子銀メダルで元世界女王の浅田真央(26=中京大)が12日、都内で引退会見を行った。人々に親しまれた「氷上の女王」は引退を決断した経緯や現在の心境、自分のスケート人生について真摯に吐露。最後は言葉に詰まり涙をぬぐう場面もあったが、会見中は終始、晴れやかな表情だった。そんな真央のスケート人生は母・匡子(きょうこ)さん(故人)を抜きにしては語れない。厳しくて愛情深いモーレツママとの二人三脚で歩んだ競技生活。本紙がキャッチした壮絶秘話をお届けしよう――。

 会見場となったホテルにはテレビカメラ50台とスチルカメラ100台、約430人の報道陣が集まった。熱気ムンムンの中、午前11時30分、白のジャケットと黒スカート姿の真央がステージに登壇。「私、浅田真央は選手生活を終える決断をいたしました」と改めて引退を表明した。

 5歳から始めたスケート人生。完璧な演技を求める姿が見る者の心を打ってきた。この日の会見でも自身のポリシーを聞かれ「決めた目標は達成させること」を挙げた。「一番最初の記憶は小さいころ長野県で野辺山合宿でのことです。そこでトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を絶対跳ぶと決めて合宿に行ったら成功しました。目標を達成したらこんなにうれしいんだと思いました」

 そのポリシーを教えてくれたのが、2011年に48歳で他界した最愛の母・匡子さんだった。会見で「言ったことは必ずやり遂げる。誰から授かった教えか」と問われた真央は「やはり母かなと思います」と即答した。

 浅田家をよく知る関係者が語る。「いろいろな習い事をやらせて真央が好んだのがスケートだったそうです。それ以来、匡子さんは自分のすべてを真央にささげた。練習場と学校への送迎、練習の付き添い、24時間毎日一緒。15年も練習を見ているので下手なコーチよりダメな部分を指摘することができるんですよ」

 スケートをやると決めると、学業を犠牲にすることもいとわなかったという。「中学3年間、ほとんど通学しなかったので『出席日数が足りないんですけど』と学校側から言われても『だったら学校をやめる! 真央にはスケートがあるから』と言い放ったそうです」(同)

 持って生まれた才能が母の情熱によって磨かれ、またたく間にトップ選手に成長。年齢制限で06年トリノ五輪出場はかなわなかったが、「天才少女」の名を全国に知らしめた。迎えた10年バンクーバー五輪。真央を金メダリストにすべく匡子さんは燃え上がる一方だった。

 日本スケート連盟関係者は証言する。「なんと現地のリンク場を借り切ったんですよ。情報漏れを防ぐため、全部シャッターを閉めた。で、たった2人だけで直前練習に励んだんです。こんな親子はいません」

 ところが、この後は真央の体が成長し、ジャンプが決まらなくなる。迷走の末、ようやく佐藤信夫氏(75)がコーチに決まったものの、自身の体は病魔にむしばまれていた。そして11年に帰らぬ人に…。「実は佐藤コーチには生前、匡子さんから遺言がありました。『もう一度、真央を一番いい状態に輝かせてほしい』と。実績のある選手を途中から修正するのは大変なんですが、お母さんとの約束があったからできたのでしょう」(同コーチの友人)

 自身の代名詞でもあるトリプルアクセルにこだわって同コーチと衝突することもしばしば。だが、匡子さんとの思い出がいっぱい詰まったジャンプであることも同コーチは理解していた。

 真央は会見の最後「皆さん、今日は本当にありがとうございました」とあいさつした際、2度言葉に詰まり、2度後ろを向いて涙をぬぐった。そこには亡き母への感謝の気持ちもあっただろう。真央に近い関係者によると、匡子さんの墓前に引退の報告はしていない。「いつも心の中に母がいるからね」(同関係者)

 二人三脚で歩んだスケート人生。真央は次のステージに進むが、傍らでは今でも母が見守っているに違いない。

最終更新:4/14(金) 11:08

東スポWeb