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80年前、町工場が日産に勝った日本初の常設サーキット 観客席跡地保存へ前進

4/14(金) 16:18配信

日刊工業新聞電子版

「ダットサン」 VS 「オオタ号」

 日本の自動車産業はここから始まった―。1936年6月、多摩川土手に日本初の常設モータースポーツサーキット「多摩川スピードウェイ」が誕生した。1周1・2キロメートルで、3万人の観客を収容。2年間という短い間ではあるが、多くの技術者を輩出した。現在、「多摩川スピードウェイの会」では、残存する観客席跡地を保存する活動をしている。16年にはこの観客席を残すべく記念碑を設置した。歴史を後世へと語り継ぐ。

 東急東横線の新丸子駅で下車して徒歩約10分。自然豊かな多摩川沿いに、階段状の舗装が現れる。80年前、名だたる技術者たちが、スピードと技術を競い合ったサーキット場「多摩川スピードウェイ」の観客席跡だ。

 1936年、同地では「第1回全日本自動車競走大会」が開催された。誰もが日産の「ダットサン」優勝を信じたが、結果は町工場製の自動車「オオタ号」の圧勝。町工場が大手企業に勝った瞬間を想像しながら土手を見渡すと、当時の興奮が伝わってくるようだ。

 「オオタ号」を作ったオオタ自動車創業者太田祐雄氏の孫である太田邦博タマチ工業(東京都品川区)会長は「当時の写真や資料を見ると、祖父が体感しながらモノをつくっていたことが伝わってくる。現代ではコンピューターのシミュレーションが主流だが、実際にやってみるという精神を忘れないでほしい」とほほえむ。

本田宗一郎氏、「浜松号」でF1に目覚める

 同大会には、後に本田技研を創業する本田宗一郎氏も出場した。「浜松号」を製造し、自らハンドルを握った。驚異的なスピードで走る「浜松号」だったが周回遅れの車に追突。優勝はかなわなかったが、この悔しさが鈴鹿サーキットを建設し、F1に挑戦する情熱に火をつけたという。

 また「多摩川スピードウェイ」は、元米国日産社長である片山豊氏の原点でもある。戦後「ダットサンスポーツDC3」製造に携わった際、レースで培った人脈を利用。太田祐雄氏の息子でオオタ自動車エースドライバーだった太田祐一氏にデザインを依頼した。かつてのライバルが協力し、自動車の進歩に尽力した。

 片山氏の次男である片山光夫さんは、多摩川スピードウェイの会会長を務めている。「直接の子孫たちも老齢化しているが、当時の情熱やモノづくりのよろこびを後世に残したい。記念碑も設置した。ぜひ足を運んでほしい」と力を込める。

 その後「多摩川スピードウェイ」は、1938年の「第4回全日本自動車競走大会」で歴史に幕を下ろした。第2次世界大戦への突入で中止せざるを得なかったからだ。

 現在「多摩川スピードウェイ」の跡地はジョギングや散歩を楽しむ人々でにぎわう。同会会員で大田観光協会(東京都大田区)元事務局長の栗原洋三さんは「多摩川沿いの歴史は観光資源にもなる。多くの人に先人の思いを知ってもらいたい」と笑顔をみせる。観客席跡地に足を止めれば、先人たちの思いと熱を感じられる。