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異変は桜舞う高2の春…壁に頭を打ち付けて泣いた 高橋勇市、アテネで挙げた金の祝砲は新たな号砲へ

夕刊フジ 4/15(土) 16:56配信

 息を吸い、ふぅっと吐き出す。体を前傾させ、踏ん張っていた右足を蹴り、加速する。

 と同時に1、2、3…。数をかぞえて50で一区切り。これで1分、250メートル。また一からかぞえ直し、50を4セット、4分経過で1キロ通過だ。

 こんな具合に計算しながら走りきる。ゴールを過ぎて、実際にかかったタイムと頭の中でかぞえた時間を比べてみると、ほとんど狂いはない。

 「長年やってますから。レースのとき、何を考えているかってよく聞かれますけど、実はね、数をかぞえてるんです」

 時計は見ない。というか見ることができない。光を失って17年が経つ。

 城址公園の数千の桜が春を告げる秋田県横手市に生まれた。異変は桜花が街を覆うそんな時期、高校2年の4月だった。

 「学校の健康診断を受けたら病院に行くように言われて、診てもらうと白点状網膜炎で、いまの医学では治せないと。まだ視力が0・2ぐらいあったので状況が理解できないというか」

 だが、歩けばトラックのサイドミラーに顔をぶつけ、夕方になると側溝に転落。そんなことが次第に増えていく。

 「私の場合、その後、網膜色素変性症も併発するんですけど。どんな感じか、カメラに例えると、レンズはいいけどフィルムが腐っていくような状態。どれだけレンズがよくてもそれじゃ写るものも写らないというわけです」

 卒業後、大学を目指し、仙台の予備校に通うが、視野はどんどん狭まっていく。状況を知らない講師に「そんな漢字も読めないんじゃ大学なんて無理だ」と言われた。

 実家に帰り部屋にこもった。壁に何度も頭を打ち付けた。その衝撃で、今までのことが何もなかったかのように視界が開けるのではと期待するが、そうなるはずもない。傍らで母親が「目が移植できるのなら、母さんのと交換してやるから」と泣き崩れている。気づけば壁に穴が開いていた。

 「大きな転機は、所沢のリハビリテーションセンターに入ったことでした。医学史を担当する先生に10キロマラソンを勧められ、走らないと単位がもらえないかもと思ってやってみたんです。前を走る人にぶつかったり、転んだりで散々。当時はまだ好きにはなれませんでしたね」

 本格的にやろうと決めたのはアトランタ・パラリンピック(1996年8月)全盲の部のマラソンで、日本人が優勝したと聞いたときだった。

 まったく見えないのにどうやって42・195キロを走るのだろう。怖さより興味が勝る。リハビリセンターを卒業して8年が過ぎていた。

 その年の年末、沖縄の大会で、31歳にしてフルマラソンに挑戦し、4時間53分47秒で完走する。

 「後半疲れて歩いたんですけど、中学時代、陸上部でいい成績を残していたので本気を出せば、ある程度はやれるなと」

 これを機に練習を本格化させると、タイムは面白いように縮んでいった。それとともに視力を完全に失う日が、すぐそこまで迫っていることも再認識し、心を整えた。

 熱風が吹き、直射日光が容赦なく肌を焼く。あの日、ギリシャの空はいつになく澄んでいた。

 「炎天下には慣れていたんですけど、正直キツかったですね」

 日本代表となりアテネ・パラリンピック(2004年9月)の大舞台に立っていた。スタートの号砲が鳴る。いつものように数をかぞえだした。

 「伴走者の体調が心配で、当初考えていたペースを抑えて、タイム度外視で勝つ戦略に替えました」

 25キロ地点でトップを抜いた。問題は30キロ地点。前半の上り坂、ここで引き離し、40キロまでの下り坂で一気に差を広げる。戦法は見事にハマる。無我夢中、息せき切ってゴールを抜けた。

 センターポールに揚がる日の丸と流れる君が代。手を差し伸べてくれた応援者、支えてくれた妻を思うと、絶望で枯れたはずの涙が自然とあふれてきた。

 アテネで挙げた世界一の祝砲。だが、それはほどなく新たな号砲へと変わる。

 「身障者が少しでも生活しやすくなるために走り続けなくてはなりません。2年前、ニューヨークシティマラソンに参加したとき、地下鉄に乗ると、あちこちからこっちに座れと声をかけられ、最後は体ごと引っ張られた。日本はまだまだそういう状況ではない。身障者がいるのが普通という融合した世の中になってほしいんです」

 今度の戦いに距離の区切りはない。相当険しい道のりなのも分かっている。だが、そんな夢を色鮮やかに描いている。 (ペン・水沼宣之 カメラ・古厩正樹)

 ■たかはし・ゆういち 1965年6月12日、秋田県横手市出身。51歳。高校2年のとき、目の難病を発症し、視力が急速に低下。卒業後、国立身体障害者リハビリテーションセンター(埼玉県所沢市)に入所し、社会復帰訓練を受ける。34歳で失明。IT企業の企業内マッサージ師などを経て、2015年、三菱商事入社。04年4月、国際盲人マラソンかすみがうら大会で2時間37分43秒の世界記録(当時)を樹立し、同年9月のアテネ・パラリンピックで金メダル。妻の嘉子さんとともに東京都内に在住。

最終更新:4/15(土) 16:56

夕刊フジ