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【静岡・古城をゆく】渋川城(浜松市引佐町渋川) 井伊庶家の居城 本家を凌駕?

産経新聞 4/16(日) 7:55配信

 井伊氏は、平安・鎌倉期から赤佐、奥山、井平、石岡、田沢、上野、中野など、与えられた土地名を名乗り13家以上の一門を輩出している。南北朝期の敗退後は、遠江今川氏の貞世(了俊)が九州探題赴任とともに九州南朝討伐に従軍し奥山氏などの犠牲者も多く出している。

 ところで、周知な彦根藩の井伊氏は井伊谷を本地とするが、『引佐町史』上巻に渋川の地には別系統の井伊氏が存在していたという。その根拠が、渋川集落に残る仏像銘・棟札銘などに、井伊谷井伊氏の系図には載っていない人物が登場する。正安(1299~)、応永(1394~)、文明(1469~)期ころの井伊直之、直秀、直幸と次郎直貞らで、同郷の東光院所蔵系図にも記載される(井伊直虎の許婚(いいなずけ)であった亀之丞・直親が今川氏に追われ逃れた寺)。

 また、先学では九州従軍前の総領は「●直」と下に「直」を用いるが、それ以降は「直●」と上に表記するようになり、渋川井伊氏の特に「次郎直貞」は庶家にあたるのに、総領嫡子の「次郎」を名乗ることから、次第に井伊家を凌駕(りょうが)し井伊谷を本拠としていったとする見解は歴史ロマンをかき立てる。

 現在の城跡は、西半は削り取られ改変し遺構は見られないが、地元では「スロウ」(城?)といい、地名も「殿垣戸」、周辺には「上界戸」「蔵屋敷」「馬場」など城郭地名が多く残る。さらに、上段には井伊氏の祖である共保墓と、北端地の「渋川ボダイジュ」脇には、前述した渋川出身の次郎直貞をはじめ直之、直秀と直幸などの五輪塔、宝篋印塔が祭られている。

 渋川郷の北には「大平」「大代」集落があって、地元がまとめた『遠州渋川の歴史』では、北朝軍に攻められ落城した大平城を当該としているが、残念ながら明瞭な遺構のないことも記している。(静岡古城研究会会長 水野茂)

最終更新:4/16(日) 7:55

産経新聞