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新茶の季節到来 日本茶発祥地、佐賀県・吉野ヶ里町にルーツを探る

THE PAGE 4/30(日) 14:40配信

 茶摘みシーズンの到来を告げる「八十八夜」。今年は5月2日だ。日本茶の栽培は、弥生時代の環濠集落跡「吉野ヶ里遺跡」で知られる佐賀県神埼郡吉野ヶ里町で始まったことは意外に知られていない。なぜ、この地が発祥の地になり、どのようにして全国に日本茶が広まっていったのだろうか?
 

 吉野ヶ里町は佐賀県東部に位置し、2006年3月、三田川町と東脊振(せふり)村が合併し誕生した。この東脊振の地名に発祥の地になった秘密の一端が隠されている。

 「福岡と佐賀の県境を分ける脊振山は、今は山の名前ですが、明治時代の初めごろまではお寺の名前でした」

 旧東脊振村に生まれ育ち、大学卒業後、村役場に就職。村長を経て合併後2人目の町長になった多良正裕さん(66)は、そう切り出した。

平安時代後期に栄西禅師が中国より茶の種を持ち帰る

 脊振山の中腹に霊仙寺(りょうせんじ)跡という廃寺があり、和銅2(709)年に元明天皇の命で開山されたとの言い伝えがある。平安時代から鎌倉時代にかけて天台密教系寺院として栄えた。正式名称は「背振山霊仙寺」。比叡山延暦寺や高野山金剛峯寺にたとえると分かり易い。

 「地元には『背振千坊』という言い伝えがあります。霊仙寺は千の坊(寺坊)を持っている、それほどたくさんの坊があり、修行僧でにぎわっていたという意味です」と多良さん。佐賀県教育委員会などの学術調査では、脊振山中腹の斜面から谷部までの約40haで寺坊跡とみられる平坦地が約90カ所確認されている。

 平安時代後期、中国(南宋)に2度渡航した臨済宗の開祖、栄西禅師は中国浙江省の天台山と天童山で臨済禅を修めた。建久2(1191)年、2度目の帰国の際に経典と一緒にお茶の種を持ち帰り、霊仙寺の坊の一つ「石上(いわかみ)坊」の前庭に茶の種を蒔き育てたのが、日本茶樹栽培の起源とされる。

茶栽培に最適な土地とは?

 お茶の栽培では気象と土壌が特に重要とされる。霜が降らず比較的寒暖差があり、霧が立つような地域が適地とされる。石上坊跡付近は標高400-500メートルほどで寒暖差がある。近くには小川が流れており、気温の変化で霧も立ち込めやすい。

 「『栄西が学んだ浙江省の天台山の万年寺や天童寺に地形や気象条件が似ており、この地が選ばれたのも理解できます』と石上坊跡を視察した中国の大学教授も話しました」と多良さんは言う。

 もう一つの良質な茶葉が育つ土壌は、水はけがよい南斜面と肥料が欠かせない。化学肥料がなかった時代だ。多良さんは「たくさんの坊があったことは、それだけ数多くの僧侶が寝泊まりして修行していたはずです。肥料の確保は容易だったでしょうね」と話す。

 「石上坊」の前庭は茶樹栽培に大切な2つの条件を満たす最適地、と栄西は判断したわけだ。

 栄西が著した『喫茶養生記』は鎌倉時代を代表する医学書の一つ。茶と桑の効能などが書かれている。多良さんは、栄西は禅修行の際、お茶を薬のように使っていたと考えている。

 「お茶に含まれるカフェインは眠気を覚ますので、座禅を組んでいて眠くなるのを防げます。テアニンは緊張した時のリラックス効果があります。さらに大量のビタミン類も含まれています」

 脊振山頂から中国大陸との交易拠点だった博多までは直線距離で約20キロメートル。平安時代末期、平家の九州の重要拠点だった荘園「神埼の荘」は、佐賀県神埼市郡にあった。平家は、太宰府政庁の役人の目を避け、荘園と博多を結ぶ道を利用して日宋貿易を営み、財を蓄え勢力を拡大したという。この道は後に「筑前街道」と呼ばれるが、街道が霊仙寺境内を通っていることからも、一帯が脊振山の中心地だったと想像するのに難くない。

 多良さんは言う。「中国に渡航する僧侶たちは、筑前街道を利用して博多と霊仙寺を往来し、修行しながら渡航する船を待っていたと思います。栄西も渡航する前から、博多と霊仙寺を行き来して、この辺りには明るかったでしょう」

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最終更新:5/7(日) 6:01

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