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【今こそ知りたい幕末明治】(14)志士が歩いた「筑前六宿」

産経新聞 4/21(金) 7:55配信

 長崎街道は、東海道など「五街道」に次ぐ脇街道であり、九州の幹線道路だった。参勤交代の大名行列や公的な役人、商人、旅人など通行量も多かった。

 その長崎街道に「筑前六宿」と呼ばれる6つの宿場がある。このうち山家宿からは薩摩街道や日田街道、秋月・甘木や太宰府方面へ分岐する。西郷隆盛や大久保利通、小松帯刀、坂本龍馬、中岡慎太郎ら、多くの志士たちが往来した道で、当時の志士の日記や紀行文などにも頻繁に登場する。

 長州藩の兵学者で松下村塾でも知られる吉田松陰(寅次郎)は嘉永3(1850)年8月から約4カ月間、兵学や海防などの見聞を広める実学修行のため、平戸や長崎、熊本など九州遊学の旅に出かけた。旅の様子は、彼が記した『西遊日記』(嘉永3年8月29日~9月1日)に詳しい。

 松陰は門司大里(内裡)に上陸し、小倉城下から黒崎宿、木屋瀬宿(いずれも現北九州市)から飯塚宿、内野宿(福岡県飯塚市)を通った。さらに冷水峠を越えて山家宿、原田宿(同県筑紫野市)と、長崎街道の筑前六宿を経由し長崎へ向かった。

 西遊日記によると、黒崎宿では、黒崎城跡について見聞した。ここは黒田如水(官兵衛)の三家老として名をはせた井上周防守が城主を務めた。また、途中の小竹では「小竹車」と呼ばれた石炭運搬車を見ている。土石300斤(180キロ)を運べたという。

 また、山鹿流の兵学者・軍学師範らしく、宿場の出入り口である構口も調べた。山家宿などの築地塀の構口の施設を、有事に役立つ「女墻」であると分析した。

 内野宿については「寂寥の山駅で、海遠く山深し」との印象を記し、日記に付属の漢詩文集『西遊詩文』の中で、内野や冷水峠周辺の自然や山に囲まれた美しい景色に「杖底天邊萬畳山、眼明遠近最高山」との賛辞を記した。

 一方、歌人で勤王家の野村望東尼は、歌の道の師、大隈言道が滞在した飯塚宿を度々訪れた。福岡城下から、博多往還(篠栗街道)、八木山峠石坂を越え、野村家の知行地であった相田を経由し、飯塚へと向かったという。

 大隈言道は古川直道や、森崎屋・小林重治、曩祖八幡宮の宮司の青柳直雄、芳井廣道ら、飯塚宿の有力な歌人商人らと交遊し、和歌の指導や、彼らの援助による歌集『草経集』の出版準備中であった。

 望東尼の歌集『向陵集』には和歌だけでなく、和歌を詠んだ場所や情景なども含め、彼女の飯塚行きの足跡や行動も記されている。特に、万延元(1860)年10月の飯塚行きの際、八木山峠の山中の松の倒木に、桜田門外の変にも参加した薩摩藩士、有村次左衛門の歌「いはかねのくたけてさめよもののふの国のためとておもひきるたち」が自筆で記してあるのを偶然見つけた。その志に感嘆して「いはがねの砕けても猶さめやらぬ夢の行く末思ひこそあれ」(『向陵集』1381)の歌を詠んだと記している。

 吉田松陰や野村望東尼ら著名な志士以外にも、多くの草莽志士が国事周旋、勤王活動に奔走し、九州各地を旅した。

 こうした旅を物心両面から支え援助、庇護したのは、財力や胆力もあり、勤王の志の厚い長崎街道筑前六宿などの宿場町の商人や旅籠の主人、義侠達らだろう。志士の活動に共感する協力者、周旋する人々の存在があった。

 吉田松陰の提唱した「草莽崛起」に始まり、多くの志士が国事周旋に、全国各地を旅しながら遊説、交流し、地域人々の思いやさまざまな情報を「同志」としてつなぎ、「絆」として実を結んだのが、明治維新なのかもしれない。

最終更新:4/21(金) 7:55

産経新聞