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4度の“戦力外”を経験した男の挑戦

4/27(木) 14:31配信

ベースボールキング

希望を与えた『リストラの星』

 4度の“戦力外”を味わった男が、栃木にいる。

 宮地克彦。尽誠学園高校から1989年のドラフト4位で西武に入団。その後は思うような出場機会を得られなかったが、8年目の2002年に伊原監督の下で主に3番打者として100試合に出場し、チームのリーグ制覇に貢献した。しかし、その翌年の2003年、ひざの故障が原因で出場機会が激減。同年オフに彼は1度目の戦力外通告を受ける。

 現役続行を希望し、横浜ベイスターズ、大阪近鉄バファローズ、千葉ロッテマリーンズの入団テストを受けるも不合格。12球団合同トライアウトにも参加したが、手を挙げる球団はなかった。

 しかし、最後の最後にダイエー(当時)が宮地氏にオファー。入団テストの末、新しいユニフォームで“第二の野球人生”をスタートさせた。

 2005年シーズン、彼は目覚ましい活躍を遂げた。開幕スタメンの座を勝ち取ると、レギュラーに定着し、プロ16年目にして初の規定打席に到達した。さらに、外野手部門でベストナインを獲得。『リストラの星』として、多くの人に希望を与えた。

2度目の戦力外、指導者としての再出発

 だが、無情にも翌2006年、故障が重なり自身2度目の戦力外を味わうこととなった。

 「戦力外は1度経験済みだったので、免疫力があった」。宮地氏は当時を振り返り、こう笑い言ってのけた。

 その後、宮地氏は北信越BCリーグの富山サンダーバーズに選手兼コーチに就任。自身、コーチ職は初めてで、プレーヤーとの両立は本当に大変だったという。

 だが、宮地氏の指導は、多くの教え子たちに影響を与えた。それは、野球技術だけでなく、“人間力”という部分でも。

 『プロに行けるのはほんの一握り。大半はプロに行けない。お腹一杯に野球をさせて諦めさせてあげる。そして社会に出て通用する人間を育てる』。

 これが宮地氏の教育方針だった。

元阪神・野原氏が語る宮地氏

 野原祐也。阪神ファンなら、ピンとくることだろう。彼も、宮地氏の教え子の一人だった。

 富山サンダーバーズを経て阪神タイガースに4年間在籍。現在はメジャーリーグで活躍をした大家友和の立ち上げたクラブチームOBC高島の監督を務めている。

 「プロに行けたのは宮地さんの個性を生かす指導と教育があったから」。野原氏は振り返る。

 決して自身の考えを押し付けず、選手それぞれの性格を理解し、笑いとツッコミでチームを一枚岩にする。宮地氏は「コーチ職にしがみ付かない選手寄りの指導者」だった。

 「正直マネしても宮地さんの様にはできませんね」と野原氏。監督という立場についた今、「宮地さんの指導者としての能力は突き抜けている」と気づかされたという。

 現役のNPBの選手でも宮地さんの教えで才能を開花させた選手は数多い。しかし、宮地氏は「自分が育てた」とアピールするタイプではないため、この事実はあまり知られていない。

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