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きっかけは、キノコの生える家。38歳中卒の女性が、不動産会社開業を決意するまでの話

4/30(日) 20:30配信

STORYS.JP

「少年よ、大志を抱け」《Boys, be ambitious.》
米国人のクラーク博士が、札幌農学校の生徒たちに贈った言葉だ。
筆者は、とうに少年ではなくなってしまった。でも、まだ志(夢)はある。
あなたはどうか。
人は、いくつになっても夢を抱いている。でも、歳をとる分だけ、できない理由も増えていく。正確には増やしていく。その様に思われる。

今年度がはじまった4月の最終日の今日は、こちらの投書をご紹介したい。38歳中卒の女性が、幼い頃の体験をきっかけに夢を追いかけていく話だ。

「38歳中卒の女性が、一部上場企業にまで務めあげ、不動産会社開業を決意するまでの話」(読了10分。5000字)

私は家を見る仕事、不動産の仕事が大好きだ。
なぜなら、きのこが生えてた家で育ったからだと思う。

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小学一年生の入学式。
私は1人で入学式に出席した。
式が終わると、周りの子は、楽しそうに保護者と写真撮影をしている。
私は一人で帰宅しようとしたら、新しくできた友達のリカちゃんが不思議そうに言った。
『洋子ちゃん何で一人なの?』
私はこの質問は慣れっこだ。
淡々とこう話した『お母さんは来ない。お父さんは離婚したからいない』と。
帰ろうとした時、リカちゃんと、リカちゃんの両親が、入学式のお祝いだと食事に私をに誘ってくれた。
そして帰り道に、色とりどりのチューリップをお花屋さんで買ってくれてプレゼントしてくれた。

私の心が驚く体験をした初めての出来事だった。
私の家は、横浜市の久良岐母子寮といって、母子家庭で生活困難者が、一時的に社会で独立生活できるまでのいわばシェルターだった。

3階建の母子寮は、1階が保育園、2階が乳児園、3階が母子寮と、学童になっていた。
母子寮は、10室あり、一世帯、六畳一間である。
母と、4つ上の兄と、2つ上の姉。そして、私。
4人暮らすには常に足を重なり合わせるくらい狭い部屋だった。
3階から窓を開けて遠くの電車の音をきくのが大好きだった。
その頃、母は、父の借金のことや、先行きの不安と仕事のストレスから精神に病がおそい、私が小学2年生のころ、ご飯もほとんど与えてくれなくなってしまった。

姉は、外国の難民がなる栄養失調におかされ、お腹だけ妊婦のように膨れていた。

とにかく飢えていた。

学期末に学童でお楽しみ会が唯一のお腹が満たされる時だった。

焼きそばをたくさん食べすぎて、その夜は、兄弟全員、お腹を壊した。

小学2年生の春。帰宅したら、母の姿がない。部屋がとても綺麗に片付けてあった。

すぐに不安がおそってきた。

その日の夕方、兄弟が全員そろったのをみて、寮長先生が部屋に話しあいにきた。

寮長が、母の精神状態をみて、強制的に精神病院へ入院させてしまったのだ。

私たちは、今日から子どもだけで、母のいない間暮らしていく説明をうけた。

生活費は、母が貯めていた貯金を切り崩す説明も受けた。
食事は学童の先生が交代で作ってくれることになり、食料の買い出しは、兄弟でおこなった。
私はその晩、半畳ほどの押入れにはいり、兄弟にわからないよう声を押し殺して泣いた。

悲しみの反面、喜ぶ出来事も多々あった。

そう。夕食の時間である。

ある日は、ミートオムレツ。
そのまたある日は、唐揚げ。
ご飯もたくさん炊いてくれてあった。
お味噌汁まで作ってくれている。

母は、ご飯を3日間に1回しか炊いてくれず、ご飯は茶碗に半分ほど。ご飯は黄ばんでいて臭い。おかずは、伊藤ハムのミニウィニーを一本。
一袋で3日間もたせていたのだから、毎日がご馳走で母の寂しさはすぐに飛んでしまった。
それでも、夜中にふと目を覚ますと、隣りに寄り添っていた母の姿がなく、シクシクと泣いてしまっていた。
夜は人を悲しみの暗闇に引っ張り込むのが得意だと感じた。

2ヶ月そんな生活が続いた七夕の夜。
母が、病院を強制的に退院して、私たちの所へ帰ってきてくれた。
七夕の短冊に、
『お母さんが帰ってきますように。洋子』と書いたら、本当に叶えてくれたと飛び上がって喜んだのも束の間。
寮長先生と母と、茨城から来た叔父と祖父が険しい顔をして難しい話をしていた。
話し合いが終わると、叔父がランドセルを持てといった。微妙な空気に流されたまま、寮生の皆に見送られ母子寮をあとにした。
ランドセルを背負ったまま、電車乗りつぎ茨城について、タクシーで常総市までいき、たどり着いた家は、まるでお化け屋敷のようだった。
『ここが、お前たちの新しい家だよ。』
叔父が言った。

夜逃げ同然で、横浜から茨城に来てしまい、友達に2度と会えないと、認識するまで数日かかり、やっと理解してから、3日間涙が枯れるまで毎朝泣いた。
4日目の朝。泣いてばかりもいられない。
新しい生活を受け入れるしかない。
この家に母の叔母が一人暮らしをしていた。
私たち一家は、母の叔母が引き取ってくれたのだ。
母の叔母は、『くに』という名前だった。くにおばさんと呼ぶようにした。
くにおばさんは、70すぎているのに、商人だった。小女子や佃煮などの食品を籠にいれ、背中に30キロの籠を乗せて売り歩いていた。
母はまだ、精神病がひどく、働けず、家事もできなくなっていて、毎日寝てすごしていた。
お化け屋敷のような家は、明治時代の家だと言っていた。100年前の家には、手入れもされておらず、階段の下や、壁際の畳にキノコが生えていた。
くにおばさんとは、家庭内別居だった為、家事は別。

洗濯機も三年間なく、私が洗濯担当になっていた。もちろん手洗いだ。
兄はこのころ野球部にはいっていたので、とにかく冬の手洗い洗濯が大変だった。
竹竿で洗濯を干し終えるまで2時間かかり、いつの日か、学校にもいかず洗濯をするほどになっていた。

母の病気も悪化し、食事に睡眠薬を大量にいれられたり、自殺行動とも見受けられる行動がしばしばあった。

食事も私が担当することにした。キッチンまでは土間を通り、朝から薪をいれ、かまどでご飯を炊いた。これは今でも貴重な経験をさせてもらったと思っている。

幸いお米と、じゃがいもは農家の叔父がたくさん持って来てくれるようになり、空腹で過ごすことはなくなった。

ガスはもちろん通っていないので、ひばち型石油ストーブの上で卵焼きを焼くのに点火してから10分以上かかった。

風速5メートル以上にはなると家が壊れるほどゆれた。台風の季節の夏から秋には、(テレビがなかったので)電話で毎日、天気予報を聞いた。

台風が近づくだけで、毎日憂鬱でならなかったが台風一過は心もすっきり晴れやかになっていたほど、家が壊れそうだったのだ。

少しの風でも瓦が飛ばされ落ち、割れる音は今でも鮮明に覚えている。
兄と窓の軒下に紐を巻いて飛ばされないよう引っ張り、寝ずに夜を明かしたこともあった。
雨が降ると、あちこちで雨漏り。洗面器を置いて、水がたまると外にすてた。

そんな生活をして数年がたち、父方の祖母から不憫と思ったのか洗濯機や、炊飯器、テレビをプレゼントしてくれて家事は軽減できていたが、

母は社会復帰ができずにいたため、近所の民生委員が市の職員に告げたのか、生活状況が酷いから、生活保護を受けなさいと何度も説得に訪問してたほどだった。
背骨が、90度曲がっている病に侵された職員の方は、よほど同情してくれた目で、その後もたびたび訪問してくれた。

母は『市の皆さんの税金で厄介になりたくない』と、生活保護を拒みつづけた。
生活費は、母子扶養手当で毎月4万円から生計を立てていたと思う。

中学生になり、朝シャンが流行っていた。我が家にはガスがないので給湯器もない。兄弟で屋外の立水栓で、冬でもシャンプーをするのが日課となった。
冬至の季節だと、朝は凍っていて、ひばちでお湯を沸かし、凍結してた水栓を溶かしてから、修行のように冷たい水に頭を濡らす。すすぐ頃には耳は真っ赤で、洗いあがると、外は寒くても、南国のように温かいと錯誤するほど水は冷たかった。
虫もおおく、家の中でも、カマドウマが飛び跳ねていた。水道や風呂場は、ナメクジだらけ。
室内は屋外にいるようなクモだらけ。
朝起きると頭の下に大きな黒いクモが潰れていたことが何度もあったが、その頃は虫が怖くなく、全く平気であった。

今は考えるだけで恐ろしいと思う笑

そして、小学2年生から住ませていただいた家は15歳で取り壊されることになり、くにおばさんと離れ、私たちは叔父が借りてくれた2DKのアパートに暮らす事になった。

これからは、家賃がかかる。

中学生3年生の冬から、友達のお母さんが事務をしているお店で、学校も休みながら特別にレジのバイトをさせてもらった。

毎月8万から14万の収入になったので、生活費に当て込んだ。

高校は最初から進学しようとは思ってなく、ガソリンスタンドに就職した。

そこから、夜はお好み焼き屋のバイトもはじめた。

自分で働いた分だけお金を稼げる嬉しさを覚えた。

それから、友達のお母さんが経営する飲食店で働きながら、もっと、まとめて稼ぎたいと、住み込みの仕事を探し、家を出た。

みんな、私の当たり前の境遇をきくと、とても親切にしてくれた。

私は、本当に世間の人は良い人しかいないと、恩返ししたい気持ち一心で働いた。

20歳になり、毎月発行されるアパートマンション情報誌を200円で購入し間取り図をみる時が至福の時間だった私に、ルームシェアをしていた友人のあいちゃんが『そんなに好きなら、不動産屋で働けば?』といった。

私は中卒だし、会社で働ける立場ではないと思っていたから拍子が抜けた。

どの求人も高卒以上と書かれているからである。でも、ダメ元でxxx不動産という会社に面接の電話をした。

事前に履歴書を送らなくても直接来てくださいと言われた。

履歴書など、きちんと書いたことがない私は、写真も貼らずに、面接にいどんだ。

xxx不動産の社長は意外にも、30代半ばの綺麗な女の人だった。

社長に挨拶をし、持ち前の明るさで対話をしたら、学歴ではなく、やる気があれば、いつからでも来てと入社が決定した。不動産屋で働けることになった。飛び上がるほど喜んで、ルームシェアの友人あいちゃんに報告した。

これからは、情報誌だけではなく、アパートやマンションの間取り図に囲まれながら空き部屋を案内できる事を想像しただけで本当に本当に天地がひっくり返るほど嬉しかった。

早速、入社してからの仕事業務は、予想以上に楽しかった。接客は慣れていたので、1日目で物件案内もした。

事務のパソコン作業もOLみたいで、背伸びした自分になれる好きな時間だった。

xxx不動産屋に従事してから数年がたち、宅地建物取引主任者の資格を取ったらと社長に勧められた。

勉強するのは中学生以来だった私は、先ずは漢字の勉強をした。

1年目は見事不合格だった。なめて勉強してたら受からないと思い、2年目には、仕事が午後6時に終わってから午後9時までの3時間、毎日会社の同僚と勉強。その後もココスにいき4時間は勉強した。過去問では、常に合格ラインを超えるほどに熟読できていた。試験日、緊張せずに挑んだら見事に合格できた。

そこから、私は一段と仕事に燃えた。
社長に話し、自分の可能性を試したいと、転職の意思を伝えた。
xxx不動産の環境は、私に優しすぎたからだ。

社長は、行って来いと背中を押してくれた。卒業である。退職して、送別会ではわんわん泣いた。社長はルイ・ヴィトンの名刺入れをプレゼントしてくれた。同僚はサプライズでフォトアルバムを作ってくれた。家族のように過ごしてくれた、優しすぎるxxx不動産のみんなが大好きだった。

そして、誰もが知っている不動産会社、一部上場会社に私は挑んだ。

大卒以上の学歴を希望する企業だったが、私の職務経験と宅建の資格取得で面接にまでこぎつけられた。もちろん、今回は履歴書に写真も貼った。笑

一次面接では、粥川管轄と名乗る方が面接をしてくれた。後に本社の仲介管理課のトップになる方である。

面接は主に、書類審査、面談といった形で行われた。

面談では、ノルマの説明をうけた。

わたしは初めてのノルマにわくわくしながら聞いた。

二次面接に進んだ。

面接日、滅多に風邪も引かない私は40度の高熱がでていたが、ひるむ事なく、面接にいった。

最寄り支店の支店長が面接してくれた。今までの接客を見せてほしいといきなり言われた私は、応接室で、支店長をお客様に見立てながら大声で接客した。張り切りすぎたかな?っと思ったら支店長は素晴らしいと太鼓判を押してくれた。
後は本社で合否を判断する。ただ、学歴がないので稟議が通れば、入社できると言われた。

数日後、見事、採用通知をいただき入社できる事になった。

入社してから、この会社では2カ月に1回、売り上げを競いあう形で順位を集計し発表してくれた。

さすがに、全国の壁は厳しく、売り上げ順位は全国で最高でも5位までしか行けなかったが、北関東ブロックでは後に結婚するまで常に上位を保持できるようになっていた。

私は、物件案内をしている間、お客様に感情移入してしまう。
自分の会社の物件をもちろん優先して成約しなければならないが、それでも、お客様の案内した様子を観察して、お客様にあう物件かどうかを感じ、そちらを優先することができる。
とにかく、きのこが生える家で育った私は、毎日住む家がどれほど大切かを知っている。
私は、売り上げ以上に、お客様の今後の生活に笑顔を送りたいのだ。



私は本当にこの仕事が大好きだ。

現在、38歳。

2回目の育児休暇をいただき復帰しようとしたら、保育園に落ちてしまった。

このままだと、会社も間も無く退職になる。

ならば、自分で不動産屋を開業しようと決意し、それにむけてスタートする。
- - - 引用〆

あなたには、心の奥に押し込めてしまった
志(夢)はありますか?

最終更新:4/30(日) 20:30
STORYS.JP

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