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[寄稿]80年前中央アジアに幽閉された高麗人、故国の韓国に帰ると“異邦人”

ハンギョレ新聞 5/7(日) 6:33配信

寄稿/キム・ジョンチョン「高麗人強制移住80年国民委員会」事務局長  強靭な生命力で生き延びたが 韓国では差別…国家の責任痛感すべき

 私は2017年2月から、京畿道安山市(アンサンシ)檀園区(ダンウォング)仙府洞(ソンブドン)テッゴルと常緑区(サンロクク)四洞(サドン)、大学洞(デハクドン)で、日々「高麗人」の話を聞いている。9歳の小学生から73歳のチョン・クムチョル氏まで、彼らは話を求めれば躊躇なく話し始める。私はこの高麗人たちの話を聞くたびに、私が知っている歴史をすっかり改めなければならなかった。

 日本の侵略が始まった19世紀末、沿海州(ロシア・ウラジオストク)に多くの朝鮮人が事情を抱えて集まる。彼らはそこで朝鮮人学校を立て、朝鮮軍事学校も建設する。青山里(チョンサンリ)戦闘をはじめ、多くの戦闘を通じて、祖国解放の道を作っていく。

 しかし、1920年に日本軍が沿海州に居住する朝鮮人たちを集団虐殺した「4月の惨事」などを経て、受難が始まる。沿海州独立軍は壊滅し、無惨に殺戮された。加えて朝鮮人たちは、当時のソ連共産党書記長のスターリンによって、6000キロ以上離れた中央アジアに幽閉されてしまう。1937年のことだ。

 祖母について行き強制移住の惨状を経験したチョン・クムチョル氏は、「移住の過程で主に高齢者や子どもたちは汽車で死んだ。恐怖は死体を汽車の外に投げさせることだった。後に私たちはその道を『骨の粉が舞う白い道』と呼んだりもした」と伝えた。

 この上ない荒れ地である中央アジアに幽閉された朝鮮人たちは、それでも開拓し農業をした。しかし、穀物が育つくらいの土地になると、容赦なくまた別の荒れ地に追い出された。それでも彼らは強靭な生命力で生き、また生き延びた。彼らがまさに「高麗人」だ。勤勉で誠実だった高麗人たちは、ソ連政府から努力賞と英雄賞を幾度も受けた。明晰な頭脳で学識を積んだ人も多く、不慣れな地で苦労して定着もした。

 しかし、1991年のソ連の崩壊は彼らの人生を再びめちゃくちゃにした。ソ連でただ「カレーイェツ」または「カレイスキー」と呼ばれて暮らしていた彼ら高麗人は、カザフスタン、ウズベキスタン、キルギスタンなどで新しい暮らしと労働市場を探し、再び望まない放浪を始めなければならなかったからだ。1937年9月、沿海州で3日分の食べ物だけを持って遠い荒れ地に幽閉された朝鮮人たち。80年を巡り巡って、いまは高麗人と呼ばれ、韓国に臨時居住している。韓国内の高麗人は実に4万人に上る。中央アジアで現地同胞らは故郷を忘れないために、自らを「高麗人(Koryo-saram)」と呼ぶが、彼らの故国である韓国ではいまだに、韓国語ができないただの異邦人としてのみ扱われている。

 韓国で高麗人たちに会う度に、私が知っている歴史はもとより、常識も大変な混乱に陥るばかりだ。もう私たちは高麗人80年の歴史を知らなければならない。そして国家の責任も痛感しなければならない。彼らに「同胞」という名前をつけて呼ぶために。

キム・ジョンチョン/高麗人強制移住80年国民委員会事務局長 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)

最終更新:5/7(日) 6:33

ハンギョレ新聞