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【あの時・“地獄を見た男”琴風】(2)お土産に渡されたマロングラッセ

スポーツ報知 5/8(月) 15:00配信

 すべては1粒のマロングラッセから始まった。1971年3月。中学1年生の中山浩一は、父に連れられ春場所で大阪市内に宿舎を構えていた佐渡ケ嶽部屋の稽古を見学した。「父や祖父、祖母は相撲が好きだったけど、俺は興味がなかった」。力士がしごかれる様、響く罵声に恐れをなし、稽古場を離れて近くのベンチに座って父を待っていると、お相撲さんが声をかけてきた。「大きいな、お前」。声の主は大関・琴桜。176センチ、100キロの大きな少年に目をつけたのだった。

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 父とともにちゃんこを誘われ、お土産に渡されたのがマロングラッセ。口にすると、味わったことのないおいしさが広がった。「お相撲さんは強くなったらこんなに高級なものが食べられるのかと。見たことも経験したこともない世界を見て、急に心変わりしたんだよなあ」。大関からは父を通して上京を勧められた。「あこがれもあって、何となく東京に来ちゃったんだよ」。琴桜は将来の独立を見すえて内弟子にするべく浩一を呼び寄せたのだが、当の本人は東京の中学校で勉強できるという軽い気持ちだった。下宿先は大関の家。部屋を用意してもらい、机も買ってもらった。ところが、楽しみにしていた花の都の中学生活は思わぬ方向へ進んでいく。

 上京から2か月後の6月。「大きな少年が大関の家に住んでいる」という話が琴桜の師匠・佐渡ケ嶽親方(元小結・琴錦)の耳に入った。「内弟子なんか許さん」。大関は浩一のことを一切、報告していなかった。部屋に連れていかれ「お前、相撲取りになれ」と、佐渡ケ嶽部屋へ入門となった。まだ中学2年の14歳。中ノ山のしこ名でその年の名古屋場所で初土俵を踏むと、秋場所から琴風のしこ名をもらい、転校した江東区・深川二中に通いながら土俵に上がった。学校の成績は体育を除き4か5。小6の時には大阪の国立大学付属中学を受験したほどで、夢は学校の先生だった。

 高校か相撲か。卒業が近づいてくると中学の先生は進学を勧めたが「いいです、相撲取りになります」と、土俵を選んだ。「結局は自分で決めた。琴桜関の一番弟子ということで兄弟子にいじめられていたから、『こいつらを絶対に見返してやる』という気持ちになり腹をくくった。しごかれたけど、運動音痴で何もできなかった分、うぬぼれなかったから、必死に稽古についていった」。強くなるしか道は開けない。覚悟を決めて稽古を続け、17歳になっていた74年の初夏。相撲を続けるか、やめるか。大きな決断を迫られる出来事が起きる。(秋本 正己)=敬称略、肩書は当時=

 ◆中学生力士 琴風が入門した71年当時は中学生の新弟子検査受検が認められており、地方場所にも同行して土俵に上がっていた。ところが、学校を休んで相撲を取ることが問題となり、71年11月に中学生の入門が禁止に。卒業まで東京場所中の日曜日(初日、8日目、千秋楽)のみの出場となった。その後、新弟子検査の受検資格は義務教育修了者となったため、琴風は“最後の中学生力士”となった。

最終更新:5/8(月) 15:00

スポーツ報知