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【あの時・“地獄を見た男”琴風】(3)大関候補を襲ったアクシデント

スポーツ報知 5/8(月) 15:01配信

 17歳になった1974年夏。琴風は人生の岐路に立たされる。角界に導いてくれた横綱・琴桜が同年名古屋場所前に引退を発表。年寄・白玉を襲名した。引退後は独立が既定路線で琴風もついていくつもりでいたが、師匠・佐渡ケ嶽親方(元小結・琴錦)は頑としてそれを認めなかった。父に「横綱の部屋に行けないのだったら相撲をやめる」と打ち明け、廃業する覚悟もしていた。ところが、名古屋場所中に佐渡ケ嶽親方が急逝し、琴桜が部屋を継承することに。廃業の危機は消えた。

【写真】尾車部屋から夏場所にデビューするアマ横綱・矢後

 「大きな転機になった。のどにつっかえていたものが取れたように、成績もよくなって駆け上がっていった」

 75年秋場所後に新十両。77年初場所で新入幕を果たした。琴風の代名詞「がぶり寄り」が生まれたのもこの頃だ。九州場所4日目の横綱・北の湖戦。左四つになって右前まわしをつかみ体をあおるように寄り立てると、北の湖は土俵下へもんどりうった。初めての金星だった。

 「どっちみち勝てると思わなかったから、もう一生懸命。無心で向かっていったら勝てた」

 それまでは体重142キロの腰の重さに頼る取り口だったが、「この一番で体が覚えた感じになって、相撲が速くなった」。前へ出る相撲を体得すると初の殊勲賞を獲得し、幕内上位に定着していく。78年初場所は初めて関脇になり、夏場所は12勝で2度目の殊勲賞。大関候補として注目された21歳の時、アクシデントが襲う。

 九州場所2日目。麒麟児にすくい投げで敗れて左膝を痛め、「左膝関節内側側副靱帯(じんたい)損傷」と診断され3日目から休場。71年名古屋場所の初土俵以来、初めての休場だった。福島県内の整骨院で治療を受け復調し、79年初場所は初日から3連勝と好スタートを切ったが、4日目の金城戦で「突っ張った時、膝にブチッという感覚があった」。同じ左膝靱帯を断裂。翌日から休場も公傷が認められず、番付は急降下した。春場所、夏場所と全休し、名古屋場所では西幕下30枚目まで落ちていた。

 「半年くらい相撲を取れず、夢の中にいる感じだった」休場中。知人の紹介で愛知・豊橋市の塩之谷整形外科に入院した。電気治療、膝回りの筋力を強くするリハビリに取り組み、古タイヤを引いて砂浜を走った。力になったのが病院スタッフの献身的なサポート。「恩返しするには、元気になってもう1回、土俵に上がるしかない」。支えてくれる人のためにも。“地獄”を見て、その思いはさらに強くなっていた。(秋本 正己)=敬称略、肩書は当時=

 ◆公傷制度 本場所の取組で負傷して休場した場合、通常の休場として扱わない制度。公傷が認められた場合、翌場所は休場を負けとして編成するが、その翌場所の番付は据え置きとなる。1971年九州場所で幕内・龍虎が左アキレスけんを断裂し、長期休場を強いられたのがきっかけで導入され、72年初場所から実施されたが、公傷を理由とした休場力士が増えたために、2003年九州場所を最後に廃止された。

最終更新:5/8(月) 15:01

スポーツ報知