ここから本文です

【アトピー名医・薄場氏の足跡】3)医師の誇り支えた家族

デーリー東北新聞社 5/8(月) 13:32配信

 薄場皮膚科医院の待合室に、ささやかな書が今も掲げられている。
 〈禍福は糾(あざな)える縄のごとし〉。この一言が、薄場眞の終生変わらぬ人生観を表している。
 薄場は1928(昭和3)年、皮膚科医だった父の故郷仙台市に生まれた。幼くして大病を患い、温暖な静岡県清水市(現・静岡市)へ一家で移住した。父が当地で開いた医院は、太平洋戦争末期の45年7月、空襲で全焼。数日後には仙台の実家も灰じんに帰した。八戸は、つてを頼って行き着いた疎開先だった。
 精神的に落ち込む患者に、薄場はよく自身の“災難歴”を記したコピーを手渡した。自分もこれだけの「禍(わざわい)」を味わいながら、元気に生き延びた。みんなにもきっと幸せが訪れる、と暗に語り掛けながら。
◇    ◇
 薄場にとっての「福」は、多くの患者を救ってきた医師としての誇りと、それを支える家族の存在だった。
 大恋愛の末に結ばれた美知子との間には3人の子どもを授かり、平等に惜しみない愛情を注いだ。夫が医師として成功してからも、美知子はつつましい暮らしぶりを変えず、患者と看護師を励まし、食事を振る舞い続けた。家族旅行さえままならなかったが、子どもたちにとって父の背中は、とりわけ大きく映った。やがて長男の秀と次女の泰子は父と同じ道を歩み、県外で勤務医として働き始めた。
 「この前1カ月くらい入院したのですが、そのときは息子と娘にやってもらいました。幸い皮膚科医になってくれたものですから」(92年のインタビュー記事より)
 将来の跡継ぎとして期待された秀は1年後の93年、くも膜下出血で急逝した。37歳の若さだった。
 薄場ははた目にも分かるほど憔(しょう)悴(すい)した。遺影の前で、ひとりごちた。「弔い合戦だ、敵討ちだ」。死ぬ時は診察室で―。昔から冗談交じりに語っていた自身の覚悟を、改めて固めた。
 2016年6月には最愛の妻を失い、体力も限界に近づいてきた。17年2月半ばを境に、診療を泰子に任せ、医院と廊下続きの自宅で長女明子の献身的な看病を受けた。
 発声も衰えを見せ始めた3月中旬、見舞いに来た医学生の孫に向かって、声を振り絞った。
 「頑張れよ」
 孫へというより、医業を志した“戦友”への激励のような響きが、最期の言葉となった。
 3月25日、普段通りの治療に明け暮れる院内のざわめきを耳にしながら、薄場は89年の生涯を終えた。
◇    ◇
 薄場皮膚科医院は現在、泰子が週3回、診療を引き継いでいる。
 千葉県在住で、子育て中の身。急激な環境の変化に戸惑っていた泰子の背中を押してくれたのは、患者たちだった。
 「ここがなくなったら、どこにも行き場がない」「週1回でも開いていてくれて、良かった」
 「父のように超人的な働き方はできないけれど、患者と真(しん)摯(し)に向き合う姿勢は忘れません」。父と苦楽を共にした33人のスタッフと一緒に汗を流している。
※敬称略

デーリー東北新聞社

最終更新:5/8(月) 14:03

デーリー東北新聞社