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<韓国大統領選>文在寅氏 人権派弁護士から改革のリーダーに

5/10(水) 0:28配信

聯合ニュース

【ソウル聯合ニュース】韓国の朴槿恵(パク・クネ)前大統領(収賄罪などで起訴)の罷免に伴い9日行われた大統領選で当選を確実にした進歩(革新)系最大野党「共に民主党」の文在寅(ムン・ジェイン)氏の人生は、自叙伝「運命」のタイトル通り、運命的だ。

 盟友の故盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領と共に人権派弁護士として活躍後、盧政権ではナンバー2まで務めたものの、政治とは常に一線を画してきた。そんな文氏が権力の頂点に上りつめたのは「逆説」のようにみえる。

 学生運動に熱中した経歴から判事の志望を諦めて弁護士になったことも、母親の面倒をみるため釜山に戻ることを選んだことも、釜山で盧武鉉氏との運命的な出会いを果たしたことも、盧氏の死去後に政界に進出したことも、大統領選に2回挑戦したことも運命だった。

 2012年の前回大統領選に野党統一候補として出馬した文氏は、与党候補だった朴槿恵氏に惜敗した。しかし、今回はその朴氏の罷免を受けて行われた大統領選で、政権交代への国民の熱望を受けて当選を確実にした。

 ただ、文氏の前にはいつにもまして重い課題が山積している。朴氏と親友の国政介入事件を受けて分裂した国民をまとめることに加え、低迷する経済の活性化、米国の最新鋭地上配備型迎撃システム「高高度防衛ミサイル(THAAD、サード)」の在韓米軍配備をめぐり対立する米中の間での外交戦、北朝鮮の核・ミサイルの脅威など難問が立ちはだかる。何よりも旧体制の弊害の清算と国民統合という課題を同時に成し遂げることが求められる。

◇貧しかった少年時代 飲酒・喫煙も

 文氏は1953年に南部の慶尚南道・巨済で2男3女の長男として生まれた。両親は北朝鮮北東部の咸鏡南道・興南の出身で、50年12月に米軍と韓国軍が民間人約10万人を避難させた「興南撤収作戦」で米軍の艦艇に乗って韓国に渡り、定住した。

 小学校入学時に釜山市影島区に転居したが、救援物資を受け取るためにバケツを持って長い列に並ぶなど、貧しい生活が続いた。勉学に励み、名門の慶南中学・高校に入学したが、中学時代には裕福な友人を見て社会の不平等さを感じたという。

 高校3年の時には酒を飲み、喫煙もした。名前をもじって「問題児」とのあだ名がつけられ、4回の停学処分を受けた「問題学生」だった。

 1浪して入学した慶煕大法学部時代は学生運動に熱中した。75年に大規模なデモを主導し逮捕され、大学を除籍された。釈放と同時に徴兵され、特殊戦司令部で軍生活を送った。上兵時代の76年には北朝鮮との軍事境界線のある板門店で起きたポプラ事件の対応作戦にも投入された。

 除隊直後に父親を亡くしたことから悔恨の念を胸に司法試験の勉強にまい進し、79年に1次試験に合格した。大学に復学したものの、釜馬民主抗争や朴正熙(パク・チョンヒ)元大統領暗殺事件、粛軍クーデター「12・12事態」の混乱の中で再び逮捕された。2次試験の合格の知らせを聞いたのは留置場の中だった。

 ◇判事の夢断念 盧武鉉氏と運命的な出会い

 司法試験に合格し、生まれて初めて平穏な道を歩み始めた。7年間の恋愛の末にキム・ジョンスク夫人と結婚し、1男1女をもうけた。

 司法研修は次席で修了した。判事を志望したが、デモに参加した経歴のために叶わなかった。大手法律事務所のスカウトを断り、釜山に戻ることを選んだ。82年、盧武鉉氏との運命的な出会いの始まりだった。

 意気投合した2人のもとには様々な人権・労働事件が舞い込んだ。文氏は著書で「人権弁護士の道を選んだ理由は、弁護士が単純に生活の手段になってはいけないと考えたためだ」と記している。

 87年の6月民主抗争では釜山の民主化運動を主導した。88年に盧氏が国会議員選挙に出馬し、政界入りしたが、文氏は労働問題専門弁護士を続けた。盧氏が大統領に当選した02年、文氏は盧氏の釜山選対本部長を務め、2人は再び手を組んだ。

 ◇盧武鉉政権のキーマン

 文氏は盧武鉉政権の発足から終息までを共にした。歯が10本も抜けるほどの激務に追われたが、党からの国会議員選挙への出馬要請を拒否したために居心地が悪くなり、青瓦台(大統領府)の民政首席秘書官を1年も経たずに辞任した。

 自由の身になって向かったヒマラヤでのトレッキング中に盧氏の弾劾のニュースを聞き、急きょ帰国して弁護団を結成した。弾劾が棄却された後、市民社会首席秘書官として青瓦台に復帰し、民政首席秘書官を歴任した。盧武鉉政権の最後の年である07年には秘書室長を務め、「同志盧武鉉」と栄枯盛衰を共にした。

 盧氏が朴淵次(パク・ヨンチャ)元泰光実業会長から賄賂を受け取った疑惑が公になると、弁護士兼報道官として積極的に対応した。盧氏の死去の際には国民葬儀委員会運営委員長として葬儀を取り仕切り、その後は盧武鉉財団を設立して理事長を務めた。

 ◇政治立て直しの旗手として大統領選に再挑戦

 盧氏の死去後、文氏は09年の国会議員補欠選挙や翌年の釜山市長選候補として取り沙汰されたが、政界とは一線を画した。

 しかし、文氏の政界進出を推す声は大きく、結局政権交代という大義名分で野党大統合の中に飛び込み、12年の国会議員選挙で当選した後、大統領選候補として乗り出した。

 安哲秀(アン・チョルス)氏と候補一本化をめぐって紆余(うよ)曲折の末、大統領選では48.02%という歴代野党候補最高の得票率を記録したが、朴槿恵氏に敗れた。

 忍苦の日々を送った文氏は、14年12月に党代表選に出馬した。党代表に当選した文氏は刷新を繰り返したが、翌年に安氏が離党したことで党は分裂状態となり、最大の危機を迎えた。金鍾仁(キム・ジョンイン)氏を党臨時代表に擁立して昨年の国会議員選挙を勝利に導いた。

 昨年下半期には、朴氏と親友の国政介入事件をめぐり朴政権の退陣を求め繰り返し開かれた「ろうそく集会」の民意を受け、旧体制の改革の適任者として文氏の名前が取り沙汰された。

 大統領選には主要政党から5人の有力候補が立ち、中道系「国民の党」から出馬した安氏や朴政権で与党だった保守系「自由韓国党」候補の洪準杓(ホン・ジュンピョ)氏が支持を伸ばし、選挙戦は終盤で「保革対決」の構図を形成する兆しを見せた。しかし、文氏は「積弊(旧体制の弊害)清算」を訴える一方、理念や世代、地域間の対立を乗り越え「全国民の大統領」になるという統合のメッセージを発信し続け、国民の心をつかんだ。

最終更新:5/10(水) 0:51
聯合ニュース