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小坂鉱山再建に500万円の成功報酬 鉱山王、日立の礎築く 久原房之助(上)

5/12(金) 15:40配信

THE PAGE

 実業家であり、のちに政治家にもなった久原房之助(くはらふさのすけ)は数々の鉱山経営に成功したことから、「鉱山王」との異名を持ちます。現在、日本を代表する企業、日立製作所やJXホールディングなどの礎を築いたのも、久原であることはよく知られています。

【連載】投資家の美学

 数々の偉業のはじまりは、500万円の成功報酬で依頼された、小坂鉱山の再建事業でした。先の見える男の投資家人生のスタート地点を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。

稀にみる先の見える男

 直木賞作家の古川薫が『惑星が行く-久原房之助』で郷土の大先輩について書いている。

 「久原は空想家であり、理想家であり、夢を追う青年の魂を情熱的に持ち続けた。たまたま鉱山のオーナーとなって、巨万の富を握ったが、蓄財せず手にした大金を夢のおもむくままに惜し気なく遣い果たしてしまった」

 久原房之助といえば「怪物」と相場が決まっているが、稀にみる先の見える男であった。1917(大正6)年、欧州大戦下で久原の名が日本国中にとどろいていた当時、経済誌『実業之日本』が久原を俎上に乗せた。久原の好敵手、金子直吉率いる鈴木商店が猛然と追い上げ、「三井、三菱と天下を三分する」と豪語していたとき、久原はそうはさせないぞ、天下を四分割すると、名乗り出たのである。

 「彼の出現は真に彗星のごとく、今や大臣の名を知らぬ者でも久原房之助の名前だけは忘れることはあるまい。わずか10年の短い歴史で天下の富豪たる三菱、三井と角力がとれれば、もって男子の本懐とすべきではないか。彼の事業に処するに常に疾風迅雷の勢い、をもってし、逡巡と躊躇(ちゅうちょ)は、彼の辞書にはない」

 マスコミは「“ためらい”を意味する言葉はない」と持ち上げるが、3年後にバブル崩壊とともにあえなく破綻する。だが、瞬く間に再起を果たし、またしても破産する。

藤田組で小坂鉱山を再建 成功報酬は500万円

 久原は慶應義塾を出ると一時、森村市左衛門の森村組に籍を置くが、1年半で藤田組に転じた。当時、藤田組のドル箱といわれた小坂鉱山だが、銀価の低迷で苦境にあえいでいた。再建か、閉鎖か、岐路に立たされていた。秋田県小坂の現場に乗り込んだ久原は若い社員たちと激論を交わすうち、再建に確かな手応えを感じ取った。後の史家はこう記している。

 「藤田組に入り小坂鉱山に赴き最下級の事務員となり、精励ことに当たり、歴進して事務長となる。明治31(1898)年より同38(1905)年に至る8年間は専心一意、その効果は顕著で初め敗残の観を呈していた同鉱山を一躍東洋屈指の銅山たらしめた」(大正人名辞典)

 銀価は世界的に低迷しているのに対し、銅価は軍需で高水準を保っている点に着目し、銀分には目もくれず銅分を取り出すことに専念する。

 成功報酬として叔父藤田伝三郎から500万円が約束されていたことも久原を馬車馬のように走らせた。当時米国で盛んになっていた自熔法という精錬法を採用、生産コストの引き下げに成功した。

 小坂鉱山を生き返らせた久原は東京に戻る。約束の520万円をもらうと独立する。腹心の部下を全国の鉱山に派遣して調査の結果、茨城県日立の赤沢鉱山に白羽の矢を立てる。だが、富豪への道は厳しかった。『日立鉱山史』にはこう記されている。

 「思えば明治末年の数カ年こそ、鉱毒の山、凶徒の山、利権屋の山、赤沢鉱山をその名と共に希望の山、富源の山、幸せの山、日立鉱山に転ずる苦しみと悩みと、喜びと悲しみの交錯した黎明の時、生誕の朝であった」

 久原の個人経営で始まった日立鉱山は1912(大正元)年10月、資本金1000万円の久原鉱業に生まれ変わる。久原の資金を支えたのは三井銀行であった。三井の池田成彬は浮沈の激しい鉱山業への融資に大胆であった。というより久原という人間に賭けたように思える。池田が後年久原との出合いを語っている。

 「久原君が初めて私のところへ来たのは明治36、37(1903、1904)年でした。久原君の説明というのは、何でも世界における銅相場は波のように浮沈がある。高くなるかと思うと下がるが、やがてまた高くなる。5年に一度くらいの割で、この波が動く。したがって波の静かな下向きの時に金をかけて設備を強化する。波が高くなりかけた時に掘り出す。そしてまた金を入れて施設をよくする。……この説明を聞いて感心したものです」

 古河財閥の基軸となる足尾銅山が鉱毒問題で世論の厳しい指弾を浴びている折から、久原は鉱害対策には一番神経を使った。その結果が当時世界一高い煙突の出現となる。1914(大正3)年12月、高さ510尺(155.7メートル)の巨大煙突が日立に完成する。そして2年後大分県佐賀関では550尺の煙突をぶっ立てる。高い煙突は鉱害を拡散するとの懸念もあったが、「世界一」の好きな久原は構わず巨大煙突に踏み切った。

【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)> 

久原房之助(1869-1965)の横顔
1869(明治2)年山口県萩出身、1889(同22)年慶応義塾卒、森村組に勤務、1890(同23)年藤田組に入り、業績不振の小坂鉱山に赴任、同鉱山を再建して成功、1905(同38)年独立して赤沢銅山を買収して日立鉱山と称し、1912(大正元)年久原鉱業と改める。1917(同5)年株を公開、「国宝株」と呼ばれる。1919(同7)年久原商事を設立、貿易業に進出、同9年のパニックで久原商事は破綻、久原鉱業も大きな痛手をこうむる。1927(昭和2)年事業を義兄の鮎川義介に譲り、政界に転じ、1939(同14)年政友会総裁、第2次大戦後は日ソ、日中国交回復に尽力した。

最終更新:5/18(木) 6:04
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