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【二十歳のころ 白井貴子氏(3)】ミュンヘン五輪決勝当日に右肩“奇跡の回復”

サンケイスポーツ 5/11(木) 15:00配信

 朝起きたら何週間ぶりかで気分爽快でした。1972年9月7日。ミュンヘン五輪バレーボール女子決勝の当日です。

 運命が変わったのは決勝予定日前日の5日です。パレスチナ武装組織が選手村のイスラエル選手団を襲撃、選手ら11人を殺害する事件が起きたのです。

 その日、直前のけがで右肩も回らない状態で、この五輪で引退するつもりだった私は、先輩から諭されていました。「ビッグ(愛称)、人生は長いよ。バレーをやめるにしても体は治した方がいいよ」。その先輩が、日本選手団のトレーナーで鍼治療の免許も持っている人を知っているというので、紹介してもらいました。

 「どうせやめるし、試合には出ない。治れば御の字」と、鍼治療を受けたのですが、そうしたら翌朝、40度近い高熱で起き上がれなくなった。練習に出られず、監督の小島(孝治)先生は「アイツは最後まで俺に逆らったな」とおっしゃっていたそうです。

 事件で大会は1日順延され、新たな決勝日となった7日朝、肩の痛みはすっかり消えていました。

 ソ連との決勝戦は「今日で終わり。出ることもない」とベンチで応援。でも第1セットを落とし、第2セットを取り返し…。見ているうちに、「出たい」と思ってしまったのです。佐藤忠明コーチに「肩が治った」と告げて、会場の隅で実際にボールを打ってみせました。小島先生に進言してもらっても相手にされていないようだったので、ベンチで少しずつ近づいていき、直訴しました。「1本打ちたい」と言ったら、目があった小島先生は「1本打って駄目なら代える」と認めてくれました。

 必死にアップして、第4セット5-7(当時はサイドアウト制で15点まで)の場面でコートに入ると、これで最後だから肩が壊れてもいいやと、のびのび打ちまくりました。

 15-9で取り、いよいよ最終第5セット。小島先生に「頭(先発)からいくぞ」と言われ、それまでなかった緊張が一気に来ました。ガチガチの私は苦手のレシーブを狙われ、初めて「もう少し練習しておけばよかった」と悔やみました。

 11-15で取られて銀メダル。私にとって引退試合のはずが“デビュー戦”になりました。あれがなければ4年後、モントリオール五輪での金メダルはなかった。バレー人生で貴重な、奇跡のような一日だったと思います。ただ、引退する考えに変わりはありませんでした。 (あすに続く)

最終更新:5/11(木) 16:29

サンケイスポーツ