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【今こそ知りたい・幕末明治】長州との確執 小倉藩士の悲劇

産経新聞 5/12(金) 7:55配信

 徳川幕府の「九州探題」的存在であった小倉藩小笠原家は、関門海峡を挟んで隣接する長州藩毛利家と、江戸時代の間ずっと反目していたわけではない。しかし、文久3(1863)年の攘夷実行をめぐって両藩の関係は険悪になった。

 徳川吉宗の時代の享保2(1717)年から5年にかけて、幕府主導で「唐船(とうせん)」(清国などの密貿易船)打ち払いが行われた。この際は、小倉藩が幕府の指令を長州藩と福岡藩黒田家に伝達し、響灘で3藩による打ち払いが行われた。小倉藩が長州藩に指示する立場にあった。

 幕末、尊王攘夷論が盛んになり、朝廷が存在感を増すと、長州藩はそれを利用して自藩の影響力を高めた。

 文久3年、長州藩は攘夷を実行に移す。5月10日、アメリカ商船を砲撃し、その後もフランスやオランダの軍艦を砲撃した。

 しかし、長州藩の大砲の飛距離では不十分だった。対岸の小倉藩からも砲撃し、はさみ撃ちしてはじめて、戦果を挙げることが可能であった。

 長州藩は小倉藩に対し、朝廷からの命令と主張し、関門海峡を航行する外国船への挟撃を求めた。

 この要請を小倉藩は拒絶した。「幕府からは、外国船が攻撃してきた場合に限って打ち払うよう命じられている。攻撃してこない、ただ航行する外国船を砲撃することはできない」という主張だった。

 小倉藩は、朝廷から政務を委任されている幕府の命令を順守すべきという方針を採ったのだ。

 これに長州藩は、朝廷の命令を蔑(ないがし)ろにし、攘夷を行わない小倉藩は厳罰に処せられるべきだと主張した。幕威が盛んなころと比べ、両藩の立場は逆転した。

 長州藩は「小倉藩領の田野浦(現北九州市門司区)とその砲台を借りて長州藩が代わりに砲撃を実行する」と主張した。6月20日、長州の士分110余人と大工・日雇いの者40人が大砲持参で田野浦に入り、砲台を築いた。近くの山から勝手に、杉の木を伐採し始めた。

 これを指揮したのが長州藩士、河上弥市、瀧(たき)弥太郎、それから赤禰武人(あかねたけと)であった。7月15日には、瀧率いる一隊が田野浦の御茶屋(小倉藩主の別邸)を押し借りした。

 朝廷からの攘夷監察使(勅使)の正親町公董(おうぎまちきんただ)の小倉到着が迫っていたこともあり、小倉藩の小宮四郎左衛門(のち民部)を始めとする3人の家老は同日、長州藩に「重要なこと(攘夷実行)のお引き受けが延引に及ぶのは恐れ多いので、打ち払いを小倉藩において決心した」と伝えた。

 これは、幕府も了解している窮余の一策であった。その一方で、小倉藩は6月15日、郡代(ぐんだい)の河野四郎、勘定奉行の大八木三郎右衛門を使者として江戸に派遣していた。幕府の力で長州藩の圧力を押し返そうという考えであった。7月7日、河野は江戸城で老中に面会し、幕府から長州藩への詰問の使者として使番(つかいばん)の中根一之丞らが長州に派遣されることになった。

 中根と河野、大八木らが乗船した幕府軍艦「朝陽丸」が7月24日未明、関門海峡に達したところ、長州の前田砲台(現下関市)から砲撃された。田野浦を占拠している長州勢の大砲も火を噴いた。

 朝陽丸は「日ノ丸」の旗を掲げていた。長州藩は、朝陽丸が幕府の蒸気船と把握しながら、砲撃を加えた。小倉藩士の河野が乗船していることを、知っていたからである。

 朝陽丸は、長州藩の番船数十艘に囲まれ、24日夜、下関南部町に着船した。翌25日、長州側の侍数十人が、抜刀して船に乗り込み、河野の身柄を引き渡すよう要求した。

 河野は切腹し、長州側に知られていなかった大八木も切腹して果てた。隠匿するため、その亡骸(なきがら)は幕臣らによって海底に沈められたという。

 小倉藩では藩士が総登城して大評議が行われたが、結論は出なかったようである。長州藩による領地侵犯という前代未聞の行為に対し、小倉藩はなすすべなく、両藩の確執は深まってゆくのであった。

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 この文久3年、伝統の小倉祇園は中止された。混乱する世情を物語っている。

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【プロフィル】守友隆

 もりとも・たかし 昭和56年、山口県柳井市生まれ。九州大文学部卒、同大学院比較社会文化学府博士課程修了。博士(比較社会文化)。平成23年4月から北九州市立自然史・歴史博物館(いのちのたび博物館)学芸員。幕末を中心に北部九州の近世を、交通・情報の観点から調査研究する。

最終更新:5/12(金) 7:55

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