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【静岡・古城をゆく】戦国時代の三岳城(浜松市) 石積み遺構は徳川軍築城か

産経新聞 5/14(日) 7:55配信

 井伊氏が築いた三岳城は、南北朝期に今川氏、仁木氏などの攻撃で落城し、今川氏に従うことになる。間もなく三管領の一人、斯波氏は越前、尾張、遠江の三か国守護職に任じられた。それは、今川氏にとっては遠江守護職を没収されたということだった。

 応仁・文明の乱(1467年~)を契機に今川義忠は斯波氏と対立する管領、細川勝元から遠江攻めを命じられるが、斯波方の横地、勝間田両氏の反撃で戦死する。その子の氏親は伯父の伊勢新九郎(北条早雲)の働きで中遠侵攻を再開した。文亀元(1501)年、斯波氏と信濃の小笠原氏も援軍の兵を送り出したが久野城、社山城、堀江城などでの戦いは今川氏が有利に戦ったことが「宗長手記」に記されている。

 このときの井伊氏の動きは不明であるが、氏親は永正5(1508)年、遠江守護職を得たことで、斯波義達は再び奪還を狙い出馬した。義達は井伊氏と引馬城(浜松市中区)の大河内氏を味方に組み入れた。両軍の戦いは同7(1510)年から再び始まり、長期にわたった。

 三岳城に布陣した斯波連合軍の、花平、まきの寺、三岳井伊次郎(直平か)陣所などが忍(忍者)の働きで火をかけたと「伊達忠宗軍忠状」に詳しく伝えられている。最終的には同10(1513)年に三岳城総攻撃をかけられ落城し、井伊氏は逼塞(ひっそく)し、再び今川氏に従うことになる。

 現在の三岳城は、特に技巧的な横堀と石積み土塁、そして10メートルを超す高切岸(城壁)の構造は、南北朝期でも、この永正期のものでもないようである。

 石積み遺構は三河系の山城に認められ、元亀3(1572)年以降の武田、徳川両軍による抗争期に、地理的に照応する環境から、徳川軍が築いた蓋然性が高いが、謎多き山城である。 (静岡古城研究会会長 水野茂)

最終更新:5/14(日) 7:55

産経新聞