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元セガ社長の佐藤秀樹氏が語るハード事業の裏側! “ゲームビジネスアーカイブ”トークライブ第1回の模様をリポート

ファミ通.com 5/15(月) 21:02配信

●業界関係者の経験を集約し、アーカイブするプロジェクト
 2017年5月10日、東京・銀座松竹スクエアにて、ゲームビジネスアーカイブ運営委員会主催による初のトークイベントが開催された。これは、川口洋司氏(元「Beep」「BEEP!メガドライブ」編集長)を中心とした業界関係者による有志活動の一環で、トークライブでのインタビューの成果を音声と動画で記録し、アーカイブしていくという企画だ。

 第1回は、元セガ代表取締役社長・佐藤秀樹氏をゲストに、“ゲーム機のプラットフォームビジネス~セガのゲーム機の変遷”と題されたトークライブが行われた。以下では、長年セガでゲーム機開発に携わってきた佐藤氏によって語られた、貴重なトークの一部を抜粋してお届けする。

●セガのコンシューマビジネス創成期
 佐藤氏によるトーク内容は、セガのプラットフォーム事業参入から、撤退に至るまでを発売ハードの時系列で語っていくという流れ。最初に語られたのは、それまでアーケード事業中心だったセガが、"ゲームパソコン"のSC-3000を開発し、そこからキーボードを切り離したセガ初の家庭用ゲーム機、SG-1000を発売するに至る経緯だ。

 佐藤氏によると、アーケード事業が好調だったセガだが、中山隼雄社長(当時)には家庭用ビジネスに挑戦したいという強い想いがあったとのこと。そんな想いから生まれたのが、子どもでも扱えるくらいの手軽なPCをイメージしたSC-3000(1983年発売)。難しくて高い、という当時のPCの弱点をゲームメーカーの感性で刷新したこの商品は、国内だけでなく海外でも好調なセールスを記録したという。その一方で、任天堂が家庭用ゲーム機を出そうとしているらしい、ということを知ったセガのコンシューマ事業チームは、SC-3000をゲームに特化させたマシン、SG-1000をほぼ同時に開発することになったという。この当時、ハードの開発に関わっていたのは、佐藤氏を含めてたった3人だったというのだから驚きだ。

 その後、SG-1000II(1984年)、セガ・マークIII(1985年)、セガ・マスターシステム(1987年)といった新ハードを立て続けに発売していったセガだが、佐藤氏によると当時のセガには、「ひとつの機種では長持ちしないので、市場で勝つために高スペックの新製品をつぎつぎと出していく」という考えかたが色濃かったという。「最大のライバルであった任天堂と比べると、セガはソフトラインアップが弱かった」と率直に述懐する佐藤氏。「プラットフォームを強くするのは、けっきょくのところ良いソフト」と、当時のことを振り返りつつ、家庭用ゲーム事業を成功させる要因について語っていた。

●メガドライブの世界的成功
 そんなセガの家庭用ゲーム機事業だが、1988年に発売されたメガドライブによって、ひとつの転機を迎える。メガドライブは、家庭用ゲーム機では初の16ビットCPU"68000"を搭載。これは、当時のセガがアーケード基板によく用いていたCPUと同クラスで、サブCPUとして前世代機までのメインCPUであった“Z-80A”を搭載したハイスペックなマシンだった。佐藤氏によると、この"68000"を家庭用ゲーム機に搭載することには、部品の価格面で無理があったが、「米国シグネティクス社に大量発注することで、価格を大幅に抑えることができた」とのこと。ちなみに、肝心のタイトルについては、メガドライブ向けにシューティングゲーム『サンダーフォースII』が出てきたときに、このハードのアーキテクチャが間違いではなかったことを実感したそうだ。

 ちなみに佐藤氏は、メガドライブに特別な想い入れがあるという。それは、歴代マシンの中で、唯一、任天堂を上回ったことがあるハードだからだ。かねて米国での家庭用ゲーム事業の展開を進めていたセガだが、メガドライブの発売に際しては、セールスを強化すべく、新たにセガ・オブ・アメリカを設立。現地の販売責任者が、ゲームデザイナー・中裕司氏が開発した『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』をいたく気に入り、比較広告の展開を始め、すべてのリソースをこのタイトルに集中。見事に米国市場での爆発的なヒットを生み出したという。これによってジェネシス(北米版メガドライブ)のセールスが大きく伸び、ある時期では任天堂ハードを上回るほどになったのだ。

●時代は3Dグラフィックスへ
 メガドライブの日本発売から約6年を経た1994年、セガは32ビットCPUを2基搭載した新ハード、セガサターンを発売。この1994年という年は、セガサターンのほか、メガドライブ用拡張ユニット スーパー32Xと、“SEGA Jupiter”(未発売に終わったハード。詳細は不明)をほぼ同時に手掛けており、さらに“セガカラ”(セガによる通信カラオケシステム)の立ち上げ期でもあったので、佐藤氏にとってはたいへんな時期だったという。

 90年代の中ごろといえば、プレイステーションという新たなライバルが出現し、いわゆる“ハード戦争”がもっとも加熱した時代だが、佐藤氏は、セガサターン開発の初期段階から、時代が3Dグラフィックスへと移り変わることを予見していたとのこと。ところが、『バーチャレーシング』や『バーチャファイター』などを開発した鈴木裕氏率いるAM2研などを除くと、当時のソフト開発チームの大半は3Dグラフィックスを使いこなせていなかった。このことから、新ハードの設計に当たっては、スプライトベースとし、3Dグラフィックスは疑似的なポリゴンを使える程度に留めることになったそうだ。


●最後のハード、ドリームキャストに賭けた夢
 1998年、セガによる最後の家庭用ゲーム機となるドリームキャストがリリース。セガサターンの反省を踏まえて開発されたドリームキャストは、SH4-128bitグラフィックスエンジン内蔵RISC CPUを搭載し、300万ポリゴン/秒以上の処理が可能という、当時のアーケード基板以上の性能を持つマシンとなった。

 佐藤氏によると、開発中のドリームキャストには、じつは佐藤氏のチームの設計によるバージョンと、海外チームが設計したバージョンのふたつが存在していたという。このふたつのバージョンは、商品開発のギリギリのタイミングまで本採用に向けてしのぎを削っており、最終決定は会社幹部がずらりと顔を揃える場でのプレゼンテーションに委ねられることに。 この件について佐藤氏は、「ライバルチームは事前に社内の根回しをしていたと聞いていて、95パーセントはこちらが負けると思っていた」と、当時を振り返った。だが、そんな佐藤氏の予想を覆して、佐藤氏のチームのバージョンが、ドリームキャストとして正式採用される。これを決定づけたのは、大川氏(故・大川功氏。セガ・エンタープライゼスを傘下に収めていたCSK会長)による、「佐藤はこれまでいっぱい失敗しているから、勉強しているところもあるだろう」という言葉だったという。

 ちなみに、ドリームキャストはまだ一般家庭にネットワーク環境が普及していなかった時代に、いち早く高速モデムを内蔵し、オンラインゲームの普及を掲げた革新的なハードでもあった。ここに注力したのは、セガの開発スタッフがゲームを一種のコミュニケーションツールと捉え、場所を越えてプレイヤーどうしのつながりを作ることに大きな可能性を見出したからだ。この構想を全面的にバックアップしたのは、誰あろう、前述の大川氏。大川氏は、この革新的なネットワーク構想を実現するために、数百億という私財を持ち出したという。

●まだまだ他にも驚きのエピソードが
 ここで紹介したのは、佐藤氏がざっくばらんに回想したエピソードのほんの一部。他にも、セガハード各機種の開発の裏側や家庭用ハード事業撤退に至る経緯など、終了まで2時間以上に及ぶ熱を帯びたトークは、ゲームファンにとって興味深いものばかりだった。

 冒頭でお伝えしたとおり、このプロジェクトの主旨は、ゲーム業界関係者の貴重な経験をアーカイブしていくところにあるので、その模様はいずれ“ゲームビジネスアーカイブ”のサイトで公開されていくようだ(公開時期は未定)。興味のある方は、サイトをチェックしてみてはいかがだろうか。

最終更新:5/15(月) 21:02

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