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【あの時・なんばグランド花月の30年】(4)新喜劇の“解体”キャンペーン

スポーツ報知 5/15(月) 15:00配信

 その名も「新喜劇やめよッカナ?キャンペーン」。89年10月から90年3月までの半年間で、うめだ花月に18万人の観客を集めることができなければ、新喜劇を完全解体するというものだった。ファンやマスコミを巻き込んでの大がかりなリストラは、今で言う“炎上商法”のようなものだ。

 大崎は、イラストレーターの蛭子能収やみうらじゅんにキャンペーンのポスターなどを依頼。一方、全座員と面談し、キャンペーンには若手メンバーをメインに据えた新体制で臨むと伝えた。その結果、花紀京、岡八郎ら古くから新喜劇を支えてきたベテラン俳優たちが去っていった。

 「新喜劇が終わると勘違いされていませんか? 若手を入れて新・新喜劇を作るんです」“旧・新喜劇”が終幕となった同年9月30日の公演で、残留を決めたベテランの池乃めだかがあいさつしたが、心中は複雑だったに違いない。こうして誕生した新生・新喜劇にはNSCなどから若手43人が加入。その中には今田耕司や東野幸治、ほんこん、板尾創路、木村祐一ら、かつて大崎のもと、心斎橋筋2丁目劇場で笑いに打ち込んだメンバーもいた。

 大崎に対しても脅迫めいたいたずらが続いたと、自らの半生をつづった「笑う奴ほどよく眠る 吉本興業社長・大崎洋物語」(常松裕明著)で当時を振り返っている。「オマエが大崎か! 新喜劇をつぶしたら承知せんぞ!」「今すぐ『やめよッカナ』やめろや! オマエが吉本やめんかい!」地元からの厳しい声はもちろん歓迎されるものではないが、こうした反響はむしろ思うつぼだったろう。

 コテコテの名物ギャグを封印し、10日間スパンだった公演を1週間に短縮。新しい試みを続ける新喜劇に観客はとまどい、批判の声も上がったが、大阪駅近くの電光掲示板に「新喜劇存続まであと〇〇人」とカウントダウンを表示するなど危機感をあおった効果もあって、90年3月25日に目標だった18万人を突破。無事に存続を決めると、その勢いのまま池袋サンシャイン劇場で初の東京公演を成功させた。

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最終更新:5/15(月) 15:00

スポーツ報知