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【あの時・なんばグランド花月の30年】(2)「ドン」の独裁と深い愛情

スポーツ報知 5/15(月) 15:00配信

 吉本興業の歴史は1912年、吉本泰三・せい夫妻が大阪天満宮近くにあった寄席「第二文芸館」の経営に乗り出したことから始まる。せいは、この演芸場を他とは一線を画した経営で軌道に乗せた。当時のお笑いといえば落語が中心で、その合間に漫才や曲芸などの「色物」をはさむのが一般的。だが「文芸館」と名前を改めた演芸場は「色物」を中心に構成した。常識を打ち破る「何でもアリ」の意識は、現在につながるところだろう。

 1915年に法善寺裏にあった「蓬莱館」を買収し、「南地花月」とした。「花月」の始まりである。その名の由来には2説あるとされ、一つは占いに凝っていた落語家・桂太郎が「花と咲くか月と陰るかすべてをかけて」と名付けた説。もう一つは「笑説 法善寺の人々」(長谷川幸延著)にある、夫妻が法善寺でひいたおみくじにあった「欠くるとも月と輝き 栄えては桜の花と咲く」の一文。放送作家として活躍した同社文芸顧問の竹本浩三は「花はいつか満開になる。月も15日で満月になる。そういう意味なんです。『陰る』というのは忌み言葉であって、あの吉本が使うはずはない」と説明する。

 社長を3度歴任し吉本興業を巨大企業へと育てたのは、せいの弟・正之助だ。その風貌とカリスマ的な個性で「ライオン」と呼ばれた男の口癖は「いらん金は使うな」。「一言で言ったら独裁者。強烈な人でした」と竹本は言う。頭が切れ、口で勝負する芸人ですら正之助には勝てない。「そのへんの落語家より、よっぽどおもしろい。話を聞くために怒られに行ってたようなもんです」

 ある時、西川きよし、今いくよ・くるよが正之助から高級料亭に招かれ、喜んでごちそうになったつもりが翌月の給料から代金が引かれていたという逸話もある。「お前は社員やから金かからんやろ」と、竹本は脚本のほか大道具や音声などの裏方仕事も一手に任された時期がある。「やったことがない」と言い訳をしようものなら「やったことないからやれ言うてるのや」と返された。「もったいない」と、1本360円の金づちを買ってもらえないこともあった。

 その反面、これと見込んだ芸人には深い愛情を注いだ。「やすし・きよし」の才能を一目で見抜き、「あの2人をすぐに売り出せ」と号令をかけて名コンビに育て上げたのは正之助だった。そんな「お笑い界のドン」も完成を喜んだ、なんばグランド花月にほど近い場所で、新たなうねりが起こっていた。(河井 真理)=敬称略=

 ◆元祖・花月跡は
 大阪・中央区の南地花月跡にある「浪速割烹 喜川」の前に「懐かしおます この横丁で おもろい噺 五拾銭也 此処は花月の落語席あと」と記された小さな石碑が建つ。ちなみに「なんばグランド花月」の「グランド」は戦後、京都に進駐軍が入った際に吉本が作った娯楽施設「キャバレー・グランド京都」にちなんだもので、現在まで受け継がれている。

最終更新:5/15(月) 15:00

スポーツ報知