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【夢を追う】元C-C-Bドラマー・笠浩二さん 「音楽の力、熊本復興の一助に」

産経新聞 5/16(火) 7:55配信

 1980年代、「Romanticが止まらない」などのヒット曲で一世を風靡(ふうび)したバンド「C-C-B」。前髪をショッキングピンクに染め、ピンクの眼鏡がトレードマークだったドラマー、笠浩二さん(54)は今、熊本県南阿蘇村に住む。穏やかな生活に降りかかった元メンバーの死と熊本地震。「音楽の力を信じ、故郷復興の一助になりたい」。情熱は止まらない。

 《「南阿蘇の仙人」。自身のツイッターやブログでは、こう名乗る》

 祖父が南阿蘇村出身で、両親は埼玉にあった自宅を売り払い、平成9年に村へ移住しました。僕も11年から一緒に住むようになりました。

 父の良幸(87)と母のレイ子(78)は高齢で耳が遠くなりましたが、そろって元気です。犬のリキと猫のチョビの3人と2匹家族です。サラリーマンをしている弟は、千葉で暮らしています。

 移住前は体を壊していました。阿蘇で暮らすようになり、随分と人間らしくなりました。今も月に数回、上京するけれど、必ず阿蘇に帰ってくる。青春時代を過ごした東京だが、戻りたいと思わなくなりました。

 熊本ではMr/K(ミスター・スラッシュ・ケイ)というバンドで活動しています。

 《C-C-B時代、高音の歌声と、愛嬌(あいきょう)のある性格で、お茶の間の人気者となった》

 東京のミニFM局の企画に参加したのが、メジャーデビューのきっかけでした。当時、アマチュアバンドがレコードを出すのは、大変な時代でした。

 ラジオ局の企画の中で、僕らは、和製「ザ・ビーチ・ボーイズ」をコンセプトに、「Coconut Boys(ココナッツ・ボーイズ)」としてバンドを結成しました。

 正直言うと、ビーチボーイズなんて聴いたことありませんでした。でも、「レコードを出せたらプロ」という誘惑に勝てませんでした。

 《昭和58年、シングル「Candy」でデビュー。3枚目シングルのロマンチックが、大ヒットとなった》

 僕が高い声、リーダーでベーシストの渡辺英樹さん(故人)が中音、ギタリストの関口誠人さん(58)が低音の声と、うまくそろっていた。ふだんは渡辺、関口がリードボーカルでしたが、ロマンチックで初めて僕がリードボーカルを務めた。

 曲は松本隆先生(67)が作詞、筒美京平先生(76)が作曲でした。筒美先生が、僕をリードボーカルに推薦してくださったそうです。

 それまでに2枚のシングルを出し、いずれもテレビのCMソングに採用されましたが、ヒットしなかった。ロマンチックは、起死回生をかけたシングルでした。でも、売れる曲というのは違う。大御所コンビが楽曲提供となり、レコード会社の関係者の目の色も変わりました。

 60年、バンド名も「C-C-B」に変更し、勝負に出た。ロマンチックは人気ドラマのオープニングソングに起用され、一躍ブレイクしました。

 《笠さんが電子ドラムをたたきながら、インカムマイクで歌う姿も話題となった》

 バンドのスタイルは、テレビ露出を予想し、随分と変更されました。それまで僕は髪を伸ばしていたが、イメージを変えろと、メンバーと一緒に髪を染めた。当時、イギリスのパンクバンドで、はやっていたんです。

 髪色に合わせ「ピンクの眼鏡をかけろ」ということにもなった。目が悪いわけでないのに…。だからあれは伊達眼鏡です。

 《その後もヒットを連発したが、平成元年、日本武道館ライブを最後に解散した》

 昭和62年に関口さんが脱退したのを皮切りに、メンバーそれぞれが、やりたい方向に動き始めてしまった。活動が行き詰まって解散したんです。

 解散から25年以上が過ぎた一昨年、5人のうち4人で再び「C-C-Bとしてやろうか」という状況になりました。第一弾としてライブを熊本でやろうという話になった。

 ところが、ライブの2日前、平成27年6月12日の夜に、渡辺さんが大動脈解離で倒れ、病院へ救急搬送された。渡辺さんは治療を受けていたが、7月13日、帰らぬ人となりました。

 《そして昨年4月、熊本地震が発生。16日の本震後は停電や断水に見舞われ、車中泊も経験した》

 南阿蘇は道路が寸断され、物が入ってこなかった。入ってきてもインスタント食品が中心でした。

 幸い自宅近くに水源があって水を確保できました。わが家には菜園があるので、採れた野菜と一緒に食べた。田舎の強さです。

 この界隈(かいわい)は一人暮らしの高齢者が多く、野菜を皆に分けてあげたりした。1週間ほど、頑張れば大丈夫だろうと思った。

 電気・水道の復旧には5日ほどかかりました。それまでは車中泊です。自宅へ戻っても停電しているので、明かりはロウソクしかない。

 薄暗い部屋でラジオを聞いていると、耳慣れた「アンパンマンのマーチ」が流れてきました。

 改めて聴いていると、ふつふつと勇気がわいてきた。「前向きになれる歌って、すごいな」と思いました。僕もこんな音楽を作りたいとも思った。

 阿蘇へ移住するとき、音楽を辞めようとも考えたんです。でも、元気や勇気が出る楽曲を提供するなど、やれること、やるべきことがいっぱいあるんじゃないかと思い始めた。

 被災したことで、「僕は音楽しかできない」と、肯定的にとらえられるようになった。

 これまでファンの人に応援してもらった。阿蘇へ“帰って”きてから、いろんな人にお世話になった。その恩返しが少しもできていない。

 地震を経験し、自分なりの恩返しをする覚悟ができました。いつか熊本の大きな会場で、ライブをやりたいですね。

最終更新:5/16(火) 7:55

産経新聞