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村田諒太、高校時代の亡き恩師が示してくれた「拳の向かう先」…増量で世界への道を

スポーツ報知 5/16(火) 11:02配信

 ◆報知新聞社後援 プロボクシング トリプル世界戦 ▽WBA世界ミドル級王者決定戦 暫定王者・アッサン・エンダム―同級2位・村田諒太(20日、東京・有明コロシアム)

 ボクシング12年ロンドン五輪ミドル級金メダリストでWBA同級2位・村田諒太の同級王座決定戦(報知新聞社後援)は、ゴングまであと4日となった。

 南京都高(現京都広学館)時代の村田は、ボクシング部に誘ってくれた当時監督の恩師・武元前川の下、世界のリングにつながる道を走り始めた。入学当初は体重61~62キロ。武元は村田を減量から解放し、増量を指示した。当時コーチの西井一(50)=現北桑田高教諭=は「さほどスピードはなかったが右のパンチがあったので、1年生の間に体作りをさせようと食べながらの強化を図った」。体ができていくにつれ実力もつき、1年時にライトミドル級でインターハイ準優勝。2、3年時にはウエルター級、ミドル級などで高校5冠を達成した。

 主将を務めた3年時には新入生対象のクラブ紹介で実戦体験を実施。参加した体重100キロほどで空手有段者の1年生が、2年生部員を打ちのめしてしまった。村田は勝ち誇る有段者を見て男気に火がつき、急きょ参戦。5割ぐらいの強さのパンチで圧倒した。主将として部のメンツを守るための行動だったが、1年生は脳しんとうを起こした。大事には至らなかったものの校内で問題になった。

 後で事実を知った武元から「軽く殴っても、お前のパンチは他の人とは違う。そんなところで使うな」と諭され、ハッとした。「武元先生は頭ごなしに怒るのではなく、拳の向かう先を示してくれた。人生の中で大きな出来事だった」

 04年に卒業して東洋大に進んだ後も師弟関係は続く。試合に勝てない時期は母校に帰って武元の指示を仰ぎ、基本練習をやり直した。だが10年2月、武元が50歳で急逝し、村田は悲しみに暮れた。急きょ監督に昇格して部を率いた西井は「私が村田の涙を見たのはあの時だけです」と明かした。失意のどん底からはい上がり、12年ロンドン五輪の出場権を獲得した。

 その直後、西井が校内で作業中に脚立から落ちて頭蓋骨を折る大けがをした。翌朝、心配して電話してきた村田に、西井が「大丈夫や」と答えると、村田は「もし西井先生まで死んでしまったらボクシング部はどうなるんですか」と本気で怒った。純粋な心を持ち、世話になった人に応えようとする責任感。西井は村田を「周囲の気持ちを自分の力に変えられる男」と評する。村田はロンドン五輪の金メダルを武元の墓前に報告した。プロになって世界戦に挑もうとする今でも“武元軍団”と呼ばれる南京都ボクシング部が原点だ。(敬称略、特別取材班)

最終更新:5/16(火) 11:02

スポーツ報知