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<碓氷峠>城跡発見 真田昌幸ら北国勢、北条攻めで急造か

毎日新聞 5/16(火) 11:51配信

 群馬、長野県境の碓氷峠(安中市松井田町峠)で、戦国時代末期のものとみられる城跡が見つかったと、群馬県教委文化財保護課の飯森康広さん(55)が発表した。1590(天正18)年の豊臣秀吉による小田原征伐の際、前田利家、上杉景勝、真田昌幸らによる連合軍「北国勢」が、北条氏側の支城が割拠する関東に侵攻する足がかりのための陣地(陣城)として急造した可能性が高いという。飯森さんは「当時の碓氷峠の戦略的重要性を物語る城跡」と説明している。【吉田勝】

 城跡は、碓氷峠頂上(標高約1200メートル)から旧中山道を群馬側に下って約250メートルの地点にあり、長さ約200メートル、幅約100メートルの楕円(だえん)形(広さ約2ヘクタール)。

 長野県軽井沢町教委の遠藤丘(たかし)さん(49)が2015年12月、旧中山道の道筋調査中に発見。群馬側であるため、遠藤さんから情報提供を受けた飯森さんが個人で独自調査を進めた後、今年4月から、日本の城の成り立ちや変遷に詳しい江戸東京博物館の斎藤慎一学芸員と現地調査していた。

 調査の結果、空堀や土塁跡のほか、「枡形虎口」という戦国末期に出現した防御に強い出入り施設や東斜面には六つの「竪堀」など成熟した築城技術が垣間見えることから、北国勢が松井田城攻めをした際の1590年3月ごろに造った陣城であると結論付けた。飯森さんは「日常的な支配の拠点としての城なら、中心となる主郭がもっと高く造られているのに、高低差がわずか。緊急に築城されたとみられる」としている。

 江戸時代・天保年間にまとめられた真田家の正史には「碓氷峠合戦」と題して、真田方がこの城跡から約4キロ群馬側に下った場所で、松井田城の守将、大道寺政繁の手勢と小合戦を繰り広げたとの記述もあり、北国勢の攻撃拠点だったとみられる。真田昌幸が石田三成らに戦況を伝える書状にも同様な記述があるという。

 北国勢は約3万5000人、松井田城の守備兵はわずか1000騎だったが、豊臣軍の松井田城攻めは上野国(群馬県)での最激戦となったといわれる。碓氷峠は道幅の狭い山道のため、大軍であっても数の利点を生かしきれない。飯森さんは「北国勢は数にものを言わせて一気に攻め落としたイメージで伝えられているが、陣城を松井田城の手前十数キロ地点に設けたとしたら、セオリー通りの戦略で慎重に攻めたことがうかがえる」と解説する。

 飯森さんは今後、旧中山道沿いに同様の城跡がないか調査を継続するという。

最終更新:5/16(火) 13:48

毎日新聞