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【二十歳のころ 小林至氏(1)】「神宮で野球をしたい」偏差値40台から東大合格

サンケイスポーツ 5/16(火) 15:00配信

 大型連載の第7回は、東大から1991年にロッテの練習生となり、同年秋のドラフトを経て入団した、元プロ野球投手の小林至氏(49)。言わずと知れた最難関大学から、あえて野球界を就職先に選んだ姿が脚光を浴びた。高校時代は野球も勉強も目立った存在ではなかったが、偏差値40台から1年浪人して猛勉強し、東大に合格。悔しさを力に変えて目標を達成してきた“異端児”が、「二十歳のころ」を振り返る。

 あの日は浮かれていたのか、さすがにホッとして気が抜けたのか…。警察沙汰か、最悪なら命を落としていたかもしれません。一歩間違えば、プロ野球選手になることもなかったでしょう。

 19歳だった1987年3月、東大の合格発表の日でした。当時は合格者の名前が貼り出される方式で、掲示板を確認しようと駒場キャンパスに向かうと、先に見てきた予備校の友人が「お前、受かっとったで!」といきなり声をかけてきました。その友人は不合格で「ふざけんな! 東大なんか、こうしてやる!」と叫ぶと、いきなり校内で立ち小便を始めて…。すべてが感激の思い出、とはいきませんでしたが、1年間浪人したかいがありました。

 その夜は、一緒に勉強してきた仲間と渋谷で飲み会。浪人中に酒もたばこも覚えていた私は、ここぞとばかりに安い酒を飲みました。泥酔して意識を喪失。気づいたときは、川崎市の自宅で寝ていました。後で友人に聞くと、店内を汚すほど大変なことになっており、父が車で迎えにきてくれたとか…。悪いことをしました。東大合格で、よほど開放的な気持ちになっていたのでしょう。

 「あの小林が!?」と周囲に驚かれる東大合格でした。高3の秋に受けた模試で出た偏差値は40台。現役では大阪大を受験しましたが、見事に落ちました。数学は0点。設問の意味も分からないのでやることがなく、試験中に寝てしまいました。

 高校(神奈川県立多摩高)時代は、勉強も野球も熱心ではありませんでした。中学に野球部がなく、卓球部に所属する傍ら、地域の草野球に参加する程度だった私には練習がきつくて…。先輩のしごきもあり、高1の1学期は学校をかなり休みました。野球部の練習を休むにはそれしかなかったのです。左投げで、ポジションは一塁か外野。最上級生になってもレギュラーになれず、投手を志願しました。どうせ控えなら野手より投手の方が出番があるかな…。そんな思いでした。

 甲子園は遠く、プロ野球など夢のまた夢。けれど、野球は好きだった。高校卒業が近づくと「俺、何もやりきってないなあ…」という気持ちが出てきました。

 そんな高3の春、大阪大の野球部が大学選手権に出ていることを知りました。体は小さく、技術もつたないけれど、強豪私大と神宮球場で対戦していた。「これだ!」。大阪大受験を決意したものの入試までの時間は短く、合格はならず。すると、あの大学が頭に浮かんだのです。

 「東大だ!」。神宮で野球をしたい。自分の野球のレベルを考えたら、東京六大学でやるには東大しかない-。高校時代には得られなかった、野球での達成感が欲しくなっていました。もし高校でレギュラーだったら、東大は目指していなかったと思います。

 高校を卒業して予備校へ。同学年の桑田君、清原君らがプロ野球の世界に飛び込んだころ、私は野球どころか運動とも無縁の浪人生活を始めたのです。 (あすに続く)

最終更新:5/16(火) 16:24

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