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【夢を追う】元C-C-Bドラマー・笠浩二さん “国家行事”の紅白出演

産経新聞 5/17(水) 7:55配信

 《昭和37年、北九州市で生まれた。父の転勤で、小学1年の頃、東京に引っ越した》

 中学校でブラスバンド部に入ったのが、音楽との出合いでした。ホルンを吹いていましたが、先輩がドラムをたたく姿にあこがれ、ドラムを始めた。

 中3のとき、有名ブランド「TAMA」のドラムセットを買ってもらいました。80万円程度したと思います。両親には「アルバイトをして返すから」と言ったのですが、ショッピングセンターでちょっとバイトしただけでした…。

 社宅の3階でドラムの練習に励みました。下の階の人が引っ越しました。うるさかったせいかもしれません。

 《都立本所工業高校(葛飾区)へ進学したが、バンド活動に没頭し、3年の2学期で中退する》

 高校は10年先輩にフォーク歌手、なぎら健壱さん(65)がいました。なぎらさんには、後輩としてかわいがっていただいた。(デビュー後に)「笑っていいとも」の友達の輪につないでもらったりした。

 アマチュアバンド活動を続ける中、シモンズの電子ドラムがほしくなり、また親をだました(苦笑い)。120万円でした。

 《ミニFM局の企画で「Coconut Boys」を結成。昭和58年、念願のデビューを果たした》

 初シングル「Candy」は全農ヨープレイト(ヨーグルト食品)の、セカンドシングル「瞳少女」はロート製薬のCM曲に起用されました。CM起用でいけると思った。でも、売れなかった。

 「和製ビーチボーイズ」ということで砂浜で歌ったり、演奏中にヨープレイトを食べたりもしたんです。

 そのころ久留米市(福岡県)出身の「チェッカーズ」が、どんどん売れていきました。

 僕らは田舎バンドと違う、都会バンドで売り出そうということになり、僕の出身地も東京になった。本当は僕もチェッカーズと同じ九州出身なのに。年も少しさばを読まされました。

 《3枚目のシングル「Romanticが止まらない」が大ヒットし、注目を浴びた》

 作詞家の松本隆先生(67)と、作曲家の筒美京平先生(76)の提供です。僕の歌を聞いた筒美先生が「この子の声なら、売れるかもしれない」とおっしゃったそうです。「大御所コンビでダメなら解散」が暗黙の了解でした。プレッシャーはすごかった。ドラムをたたきながら歌うのも大変でした。

 ヒットしてからは、「売れるってすごいな」と思った。普通に外を歩けなくなった。

 《昭和60年の年末、日本レコード大賞金賞に選ばれ、NHK紅白歌合戦に出場した》

 僕たちは“一発屋”じゃないんです。13曲のヒットがあり、すべてベストテン入りしました。ロマンチックのインパクトが強いせいか、よくそう言われますけど。

 当時、すさまじいハードスケジュールでした。年間140本のライブをこなし、国内のほとんどのホールを回った。

 紅白はロマンチックで行きたかったが、民放ドラマ(毎度おさわがせします)のオープニング曲ということでNGとなり、「Lucky Chanceをもう一度」を演奏しました。

 当時、レコード大賞と紅白は同日でした。15分で日本武道館からNHKホールに移動しなければならない。僕らの乗ったバスに警察車両が伴走し、交差点も規制された。紅白って「国家行事」なんだなと思った。

 《平成元年10月、日本武道館でのライブを最後に解散する》

 昭和62年にギターの関口誠人さん(58)が脱退しました。ミュージシャン志向が強まり、お金をもらって音楽をこのまま続けていけるのか、先行きを考えるようになった。「売れる」という目標がなくなっていたのも大きかった。ただ、「解散はもったいない」という気持ちで終われたのが唯一の救いでした。

最終更新:5/17(水) 7:55

産経新聞