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【二十歳のころ 小林至氏(2)】予備校で有名講師に直訴「東大に受からせてください!」

サンケイスポーツ 5/17(水) 15:00配信

 東大に入って神宮で野球をやる-。神奈川・多摩高3年の秋に偏差値40台だったにもかかわらず、そう決めた私は高校卒業後、予備校で猛勉強しました。通ったのは東京・東北沢にあった「河合塾」。「東大合格体験記」といった本を何冊も読んでいた私はまず、そこに出てくる有名な講師を訪ねました。そこで「私を東大に受からせてください!」とお願いしたのです。今思えば、むちゃくちゃですね。

 そんな中、地理の権田雅幸先生には本当に助けていただきました。競馬エイトで予想もしていた多才な先生。ある本に「社会科は一からやるなら地理だ」と書いてあったので地理を選択。そこで権田先生にお願いしたら「僕の授業を1年間受けていれば受かるよ」と言ってくれたのです。ついていくと決めました。

 先生にはそろって「復習より予習が重要」と言われました。東大の入試は論述ばかりで、丸暗記では対応できない。言われたのは「類推思考」。分からなくても何とかこじつけて、何でもいいから答えを出す。とにかく自分で考える力をつけろ-ということでした。

 運動は全くせず、睡眠時間以外はすべて勉強。朝7時に起きて8時に川崎市内の自宅を出て小田急線に乗り、東北沢へ。移動中も参考書を開きました。自習をしてから帰り、家で勉強して寝るのは午後10時ごろ。「寝ないと頭に記憶が定着しない」という先生の教えで睡眠はしっかり取り、8時間は寝ていました。

 家族にはひんしゅくを買いました。勉強中に少しでも物音がすれば、3歳下の弟や8歳下の妹を怒鳴って泣かせた。飼い犬(当時1歳、雑種)にあたったこともあります。母には「東大を目指して勉強するのは偉いけど、だれもそこまでやってくれとは頼んでいない。自分のエゴで家族を巻き込まないで」と何度も言われました。

 けれども気にしない。圧倒的なエネルギーが自分の中にはありました。4月から7月の4カ月は本当に気がおかしくなるほど勉強しました。そして夏に受けた東大模試で「A判定」が出たのです。予備校には、地方から東京に出て寮に入っていた優秀な仲間が周囲にいて、刺激になりました。8月以降は彼らと下北沢で酒を飲んだりと、多少ペースは落としながらも勉強。当時の友人とは今でも連絡を取り合っています。

 1987年3月、1浪で東大文科三類の入試に合格。4月の入学後、ついに念願の東大野球部の門をたたいたのです。

 浪人生活で中身はぷよぷよでしたが、体に横幅はあり、1メートル74の身長も東大では小さくなかった。しかも左投げ。河野敏章監督に「投手をやれ」とすすめられました。大学で初めて野球をやる部員もいたので、1年生から新人戦のベンチには入れましたが、リーグ戦はベンチ入りできず。2年生に向けての目標は「入寮」でした。

 当時の、いや29年が経過した現在もそのままの合宿所「一誠寮」は、レギュラークラスの20人程度だけが入れるところ。1年間は自宅から通っていた私は88年の初春、2年生になる前に入寮がかないました。1月30日が誕生日。ちょうど20歳になったころでした。 (あすに続く)

最終更新:5/17(水) 15:41

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