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「宗教に没頭すること」は依存症と言うのだろうか?

ホウドウキョク 5/17(水) 18:30配信

人間社会にとって必要不可欠とも言える宗教。日本では、あまり馴染みがないため、宗教に入って信仰を持つことを宗教にハマるといって珍しいこととする風潮があるが、世界的に見れば、何らかの宗教に入って信仰を持つことは常識で、むしろ宗教が世界を動かしているといっても過言ではない。では、宗教に帰依することと、依存することとは、別のことなのだろうか。宗教学者の島田裕巳さんに聞いた。

宗教世界と人間社会はもともと相容れない

「宗教の世界というのは、ある意味、社会の常識が当てはまらない世界なんです。例えば、『服従』というフランスで出た小説で、日本にも翻訳されているんですけど、フランスがイスラム化されるという話なんです。イスラム教徒が、今、移住でフランスに入ってきて、5%くらいいますが、そういう事態を踏まえて、もしフランスがだんだんイスラム化されていったら、普通のフランス人もイスラム教徒になっていくというストーリーなんです。

そのタイトルの『服従』というのが、象徴しているんですけど、宗教に入るということは、神に服従するということなんですよ。帰依という言葉にしても、絶対帰依という言葉が結構使われるんです。絶対帰依することが信仰であるというのが、わりと宗教ではよく言われるんです」

すべてに従うということが、宗教なのだ。帰依と依存もほぼ同じ意味と言っていいようだ。では、具体的には、どういう教えがあるのだろうか?

「人間は神によって創られたたものだから、その神に対して絶対服従であるというのが、一神教の考え方なんです。日本では、浄土真宗で他力本願という教えがあります。この他力本願というのは、一般には他者に頼るという意味で、阿弥陀仏にすべてを委ねてしまうこと。イスラム教の服従という考え方と、他力本願というのは非常に似ている」

ある意味、究極の依存状態である。であればあるほど、宗教世界では偉いということなのだろうか?

「委ねる方が信仰として正しいと。依存なのか、帰依なのか、正しい帰依なのか、間違った帰依なのか、依存しすぎているのか、依存が足りないのか。というところが、宗教の世界では非常に難しいんです。依存していればしているほど、宗教的にはいいと言われる場合もある。それこそが信仰者の本当のありかただと。

旧約聖書の中に、『創世記』というものがあります。そこにアブラハムという人が出てきて、そのアブラハムは非常に信仰の厚い人だったんだけど、100歳になってから子供を授かるんです。奥さんも90歳。普通はありえない話なんですけど。

その授かった子供を神が犠牲にして捧げろと言ってくる。そうすると、アブラハムは神に対して絶対服従で忠実だから、躊躇なくその息子を犠牲にします。犠牲にするというのは、焼いて供物にしてあげちゃうことで、それをやる。だけど、神は試したまでで、犠牲にするという直前の段階になって「わかったからいい」と言って、犠牲にしなくていいという。

そこではアブラハムは完全に盲目的なんです。常識で考えれば間違っている。そんな人が周りにいたら困る。自分の親が自分を人身御供にして犠牲にするなんて考えられない。でもこのアブラハムが一神教の信者のあるべき姿の、一番の絶対的なモデルなんです」

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最終更新:5/17(水) 20:05

ホウドウキョク