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【維新伝心150年】近代教育(上)森有礼 義務教育の生みの親

産経新聞 5/18(木) 7:55配信

 ■「外国の干渉許さない国力の源だ」

 力なき民族や国は、独立を失う-。19世紀、そんな弱肉強食の論理が世界を支配していた。明治政府は冷厳な国際社会の中で、日本の存亡をかけて、人材育成の道を模索した。そこでは欧化主義と復古主義の激しい綱引きがあった。薩摩藩出身の初代文部大臣、森有礼(1847~1889)は、批判を浴びながらも、西洋の科学技術と呼応した教育制度を樹立した。

 森は国際情勢に敏感な少年だった。今でいう中学生の頃には、外国の脅威と防衛の充実を訴えた思想家、林子平の「海国兵談」を、読破した。

 文久3(1863)年、脅威が現実のものとなった。薩英戦争が起きた。薩摩藩、英国海軍とも痛手を負った。

 17歳の森は戦いに参加しなかったが、近代兵器の威力を見て、西洋の強大さを実感した。藩の首脳も同じだった。薩摩藩は欧米の知識や技術の吸収を加速させた。森は藩の洋学校「開成所」で英語を専攻した。

 その後、五代友厚が発案した、薩摩藩士の渡英事業のメンバーに選ばれた。元治2(1865)年3月、羽島浦(現いちき串木野市)を出港した。

 「一笑する間に世界など駆け巡ってくれよう」。森は出発前、こんな漢詩を残した。

 若者特有の「意気がり」は、すぐに吹き飛ばされた。英国は黄金期を迎えていた。ビクトリア女王の下、世界の多くの地域を実効支配し、経済的にも栄華を極めていた。

 「旧習まみれの体を洗い流したい」。兄に送った手紙から、森が受けたショックが伺える。

 森らはロンドン大学で歴史や化学、数学、軍事学などを学んだ。

 学ぶほど焦りが募った。日本が国力を充実させるには、限られた人間だけが、技術や知識を習得しても間に合わないと考えるようになった。

 「人間性を高める教育こそが、国を富ませ、外国からの干渉を許さない国力の源となる」

 教育への思いを胸に、慶応4(1868)年6月、帰国した。3カ月後、「明治」に改元された。

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 薩摩藩出身の海外留学組とあって、20代前半の森は政府の要職に就いた。

 明治2年5月、立法府にあたる公儀所で議長心得を務めていた森は、「廃刀案」を提案した。武士階級に刀を捨てさせることで、“国民”としての意識改革を狙った。

 提案の直前、森は同郷の先輩である大久保利通(1830~1878)を訪れ、意見を求めた。

 大久保は「時期尚早だ」として、取り下げるよう諭した。だが森は引かず、大久保は説得を諦めた。

 廃刀案は猛反発を受け、否決された。廃刀令が実際に施行されるのは、7年後のことだった。大久保の言う通り、時期尚早だった。

 この騒動で森は一時政府を去ったが、明治3年、公使として米国に赴任した。

 森は、北海道開拓を担う薩摩出身の黒田清隆の希望で、現役の米農務長官来日に、道筋をつけた。

 仕事のかたわら、森は米国の教育制度を研究した。学校を視察し、著名な教育学者や大学学長に手紙を送り、意見を求めた。

 欧米では、英国の哲学者、ハーバート・スペンサー(1820~1903)の「社会進化論」が、存在感を発揮していた。チャールズ・ダーウィン(1809~1882)の「進化論」に影響を受け、自然淘汰(とうた)や適者生存といった生物学上の理論を、思想として社会に適用した。

 実際、国際社会の現実は「優勝劣敗」が幅を利かせていた。

 森もスペンサーに傾倒した。競争の中で生き残るには、国家の「進化」、つまり科学技術の進歩が何よりも大切だ。そう考え、科学技術教育の充実という信念を固めた。

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 熱意と裏腹に、森が教育行政に関わる機会は、なかなか生まれなかった。明治12年から、駐英公使として再び海外生活を送った。

 森は、教育分野への配置転換を訴え続けた。

 15年夏、ついに好機がめぐる。森は長州藩出身の伊藤博文(1841~1909)とパリで会談した。

 話の内容は、憲法や不平等条約改正だけでなく、教育に及んだ。森は思いの丈を伊藤にぶつけた。

 西南戦争(明治10年)が終わり、政府は近代国家の仕組み作りに本格的に着手していた。

 「国民教育は、国家の独立を保つことが目的だ。富国強兵を支える知力や道徳、体力を養成しなければならない!」

 熱弁を振るう森に、伊藤は感心した。

 「国の独立を保つことを教育の主眼とする見識を持つ人物を、君以外、見たことがない。国家のための教育の基礎作りは、あなたに任せたい」

 18年12月、伊藤は初代内閣総理大臣となった。文部大臣には森を指名した。

 森は教育制度の再編に着手した。初代文部卿、大木喬任(おおき・たかとう)が「学制」を明治5年に公布して以来、改良を重ねたのは良いが、パッチワーク状態になっていた。

 森は19年、学校の段階に応じた「学校令」を公布した。小学校令では「尋常」「高等」の2種類のうち、尋常課程(4年)を「義務教育」と定めた。

 「リンゴが完熟するまでリンゴと呼べないように、人間も教育されるまでは人間ではない」。森は出自や性別に関わらず、国民に統一的な教育を施すことが、国家の基礎だと考えた。だからこそ、わが国に義務教育制度を導入した。

 実業教育などを目的とした「中学校令」や、帝国大学を設立する「大学令」によって、能力や志に応じた進学コースを提示した。

 念願の教育制度作りに、森は生き生きと動いた。

 だが、矢継ぎ早な改革は反発を招く。しかも森は、「廃刀案」以来、「過激な欧化主義者」とのレッテルを貼られていた。

 ある日、森は大臣として帝国大学(現・東京大学)で演説した。米国社会の先進性を訴え、「日本はまだまだ野蛮国である」と断じた。会場は冷ややかな空気に包まれた。

 「それほどアメリカがお好きならば、帰化すればよろしい。わが国は、大臣がいらっしゃらなくても何も困らない。どうして野蛮国を去らないのか!」

 帝大教授の内藤耻叟(ちそう)は、森の演説をさえぎった。

 内藤の師でもあった水戸藩の儒学者、会沢正志斎は西洋技術を習得する重要性を認めながらも、人間教育は、わが国固有の価値観を重視すべきだとした。固有の価値観を崩されれば、植民地化につながると危機感を抱いた。

 内藤の目に映る森は、欧米に熱を上げ、植民地化の片棒を担ぐ「急進的な欧化主義者」だった。

 そして言論だけでなく、凶刃が森を襲う。

 明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布式典に出席しようと身支度をしていた森は、長州出身の国粋主義者に脇腹を刺され、翌日に死亡した。43歳だった。

 犯人は森が伊勢神宮で「不敬事件」を起こしたとの新聞記事を信じ、凶行に走ったとされる。不敬事件の真偽は不明だ。

 事件後、在京の各国大使館はそろって半旗を掲げた。福沢諭吉(1835~1901)は主宰する時事新報の社説で「わが国文明にとっても惜しく、悲しみを覚える」と追悼した。森と福沢は、西洋の学問・思想の輸入を目的に、啓蒙(けいもう)団体「明六社」を設立した同志だった。

 森が整えた教育制度は、近代日本を支える人材を輩出し、基本部分は昭和20年の敗戦まで続いた。

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【プロフィル】森有礼

 もり・ありのり 弘化4(1847)年7月、薩摩藩士・森有恕の5男として生まれる。藩校「造士館」で頭角を現し、洋学校「開成所」で英語を学んだ。駐米弁務使(公使)を皮切りに、駐清国公使、駐英公使と外交畑を歩む。啓蒙(けいもう)団体「明六社」や商法講習所(現・一橋大学)の設立などに熱心に関わる。キリスト教徒とも言われたが、清の政治家、李鴻章との会談では「宗教と名のあるものを奉ずることなし」と語った。

最終更新:5/18(木) 7:55

産経新聞