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【二十歳のころ 小林至氏(3)】規則違反承知の上、投手板の前から投げても打たれた

サンケイスポーツ 5/18(木) 15:00配信

 ♪Oh 終わらないサンセット… 東大に在籍していた1987年に流行した吉川晃司さんの歌を聞くと、今でも当時を思い出します。

 21歳だった2年の春から東京六大学野球リーグ戦のベンチに入ることができ、念願の神宮のマウンドにも立てるようになりました。ただ、敗戦処理ばかり。当時の東大は先発投手が崩れた時点で敗戦へ一直線でした。ベンチの先輩たちはこうした展開に慣れ、自虐的になる一方。相手の攻撃が終わらないと、「終わらないサンセット…」と口ずさむ人がいたのです。

 私はそんな雰囲気に、怒りがこみ上げていました。しかし連戦連敗。2年の秋、大量リードされた終盤に投げた明大戦は惨めでした。大雨でボールは滑るし、やっとゴロを打たせても野手は処理できない。審判が試合を終わらせようと、ストライクを広く取ってくれているのも分かり…。明大の応援団が奏でる「狙いうち」が耳につき刺さったのを覚えています。

 でも、どんな試合でも東大で投げられるのはうれしかった。慶大の大森剛(後に巨人)ら高校時代は対戦できなかった好打者を相手に、です。しかも翌日新聞に名前が載る。あれが誇りでした。「多摩高」と出身校も載るので、友人が「オレらの誇りだよ」と言ってくれるのも喜びでした。

 入寮した1年の冬からは、すべてを野球にささげました。ある先輩に「4年間は野球をやれ。8年で卒業するのが東大野球部の姿だ」と言われて真面目に実践し、授業にはほとんど出ませんでした。プロテインを飲み、ウエートトレーニングもやりました。ただ、がむしゃらにやっただけ。野球部に関しては東大が最もアナログな大学だったというか…。東大こそ、もっと早くから科学的な考えをとり入れるべきでした。

 3年の秋から先発投手に。何とか抑えようと、投手板の少し前から投げたこともあります。もちろん反則です。それでも打たれ…。当時130キロも出ていなかった球速では、逆に打ちやすくなったのかもしれません。

 ベンチ外だった1年の春に勝ったのを最後に勝利なし。東大は通算200勝まで1勝ながら50連敗、60連敗と負け続けたことでマスコミに注目されるようになりました。そこで私は「プロにいきたい」と公言。4年秋に連盟に出す進路調査にも「プロ」と書きました。すると坂本二朗監督に「真面目に書かないと駄目だ」と言われて、「本気です!」と言い返しました。よくけんかしましたね。試合でも交代を指示されれば「なんで降ろすんですか?」と食ってかかったり。今は大いに反省して、懇意にさせていただいていますが…。

 本当にプロに行きたかった。高校では野球部の補欠で、勉強も偏差値40台だった自分が、東大の投手として投げている。成長できたことがうれしくて、さらに上を目指そうという思いでした。

 結局チームは70連敗、自身は通算0勝12敗で4年間を終えました。そんな中、取材を受けたマスコミ関係者の方など、あちこちでプロ志望をアピール。広島の渡辺秀武スカウトに意志が伝わりました。そこで渡辺さんが「ウチは無理だけど、左だし面白いかも」と、ロッテのテストを受けられるように話をしてくれたのです。22歳の秋。大投手、金田正一監督が自分の投球を見てくれることになりました。 (あすに続く)

最終更新:5/18(木) 15:09

サンケイスポーツ

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