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弘前城と岩木山 明治期の「伝説」写真見つかる

Web東奥 5/18(木) 11:47配信

 青森県弘前市代官町の老舗矢川写真館(矢川元館主)が明治時代に撮影した、弘前城と岩木山を高い目線から一緒に収めた珍しい写真がこのほど、同市内で見つかった。矢川家には長い間、この1枚を撮るためだけに園内に巨大なやぐらを組んだという、職人魂あふれる逸話が語り継がれてきたが、同写真館には現物が残っていなかった。写真はしかも、大正天皇ゆかりの1枚で、矢川さんは「この写真がまだ残っていたなんて」と、先祖の傑作との再会を喜んでいる。
 写真は市内の男性が、今年になって実家の整理中に見つけた。はがき大で、厚紙製の台紙には「陸奥弘前本町 矢川写真館製」の文字が見られる。弘前市立博物館には、津軽家旧蔵の類似のアングルの写真が収蔵されているが、この台紙はついていない。
 矢川写真館は、元さんの祖母矢川ミキさんと姉のれんさんが1881(明治14)年、同市下白銀町で開業した。ミキさんと夫の友弥さんは分家して同市本町に新たに写真館を開き、1903(明治36)年から18(大正7)年まで同所で営業、写真はこの時代に撮影された。
 「なつかしの弘前」(1975年、東奥日報社)などによると、1908(明治41)年9月、当時皇太子だった大正天皇が弘前を訪れ偕行社に1泊、翌日弘前公園に立ち寄った。皇太子はのちに公園を「鷹揚園」と命名し、本丸から眺望する岩木山の写真を所望。市が矢川写真館に撮影を下命した。撮影者は何とかして、岩木山だけでなく弘前城も1枚の中に収めようと工夫したとみられる。
 撮影位置の二の丸からは通常、天守を仰ぐことはできるが、一段高い本丸の奥に見える岩木山を望むことはできない。市公園緑地課によると、二の丸の地面から天守の最上部までは約20メートルの高低差があり、やぐらの上の撮影者の目線も、この間の高さだったと考えられる。
 さらに、当時の弘前城は、崩落した石垣の改修中で、撮影者にとっては最悪の条件だった。このため「石垣を隠すため、朝日にうつる松の影を利用するなど、大いに苦心した」(同書)というエピソードも残っている。
 矢川さんは「まさか現物があったとは」と絶句。ミキさん夫妻は、矢川さんが生まれる前後にそれぞれ亡くなっており、やぐらの逸話は、生前の父友三さんから聞かされていたという。「今はシャッターを押せば当たり前のように写真が撮れるが、このころは相当な情熱や手間を掛けていたことが感じ取れる」と感慨深げに語った。
 写真には、当時本丸内にあったという料亭の建物が写っており、史料としても貴重だ。矢川さんは「写真で歴史を残していくことの意味を、この1枚であらためて考えさせられた」という。
 市立博物館学芸員の三上幸子さんは「何かきっかけがないと、史料は埋もれて沈んでいく。石垣改修や観桜会100年などを契機に、身近にあった写真の価値にあらためて気付く人もいると思うので、ぜひ声を掛けていただければ」と話している。

東奥日報社

最終更新:5/18(木) 11:47

Web東奥