ここから本文です

【二十歳のころ 小林至氏(4)】パンダでも構わなかったプロ挑戦

サンケイスポーツ 5/19(金) 15:00配信

 1990年11月14日。22歳の私はロッテの入団テストを受けました。球場では、ロッテの番記者に取材され、「本気なの? 変わってるね~」くらいの感じでした。驚いたのはその後。川崎市内の自宅に駅から歩いて帰ると、黒い車がズラリ。僕の姿を確認するとダッと人が出てきて、たくさんのカメラを向けられました。もう、有頂天です。ところが取材を受けて家に入ると、父が猛烈に怒っていました。

 「お前が通用するはずはない。話題作りのピエロだ! パンダだ!」。会社員の父としては、東大を卒業して普通に就職してほしかったのだと思います。しかもこのとき、母ががんだと知らされた。入退院を繰り返していて、おかしいとは思っていたのですが…。4カ月後の翌年3月に47歳で亡くなる母には「お父さんを、家族を苦しめないで」と言われました。

 それでも、挑戦をやめる気はなかった。パンダでも構わなかった。その夜、ロッテの醍醐猛夫スカウト部長から「あすも来てくれ。(当時監督の)金田(正一)さんが見たいといっている」と連絡をいただき、気持ちは高まるばかりでした。

 翌日。室内練習場で一生懸命投げた後、金田さんに「おい、野球は好きか」と聞かれ「はい!」と即答しました。すると「あとは醍醐に任せるから、よく話し合いなさい」と言われ、これはOKなのかなと…。うれしかった。あの瞬間は、今でも目に浮かびます。

 ただ、留年していて学籍上は3年だったのが影響して、91年は練習生。同年秋のドラフトで8位指名され、正式にロッテの選手となれたのは92年シーズンからでした。

 プロの世界は想像を超えていました。怖かったのは「3-6-1」。併殺を取るため一塁ベースカバーに走り、遊撃手からの送球を受けるのですが、それが速くて…。キャッチボールにしても東大時代までは受けたことのないスピン量でした。他のどの練習も、身体能力の差を痛感しました。

 現役生活は1軍登板がなく、2年間で終了。ただ、大学4年間を終えてすぐプロになれていれば、チャンスもあったかも、なんて未練もちょっぴり…。野球をするために東大に入ったので、入団テスト後は中退する考えも示したのですが、球団や父らに「卒業はしなさい」と言われ、5年目も在籍しました。今となっては卒業してよかったと思っています。

 よくなかったのは、練習生の1年間で、中途半端な達成感を得て、アグレッシブさを失ったこと。翌年プロになると“ファーム慣れ”した自分がいて、蜘蛛の糸につかまってでもという意欲を持ち続けることができませんでした。当時はチャンスも少なかった。2005年からソフトバンクの球団経営に携わった際に、3軍を作ったり、ファームの試合を増やしたりしたのは、自分の経験が原風景でもあります。

 バブル景気の時代に、わざわざ東大からプロ野球に挑戦した自分は注目されました。偏差値40台から東大を目指した浪人時代、そしてプロ選手になるまで、矢尽き刀折れるまで邁進(まいしん)した自負はあります。現役引退後も04年、球界再編問題の渦中にいた巨人・渡辺恒雄オーナーに手紙を書いてインタビューを実現するなど、ときに若いころと同じむちゃなことに挑んできました。

 あれから30年。49歳のいま振り返ると、私の二十歳のころは絵に描いたような身の程知らず、恥知らずの連続ですが、あれでよかったとも思います。それは恐らく、こんな一連の奇跡は、常識を働かせて行動していたら、絶対に起こらなかったから。説明不可能なエネルギーを持って、空気を読まずに突撃する若い人がもっと増えてほしいなあ、と思います。 (おわり)

最終更新:5/19(金) 15:15

サンケイスポーツ