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【あの時・竹原慎二奇跡の勝利】(2)ボディーブローとの出会い

スポーツ報知 5/20(土) 14:02配信

 戦績104戦で、ダウン経験のない王者カストロに両膝をつかせた竹原の左ボディーブローは、地獄の苦しみを味わったことで生まれたパンチだった。

【写真】竹原以来、日本人2人目のミドル級王者を狙う村田諒太

 89年5月のプロデビューを経て同年に「4回戦に上がったかどうか」の頃だった。ソ連崩壊後、ペレストロイカの波に乗り、沖ジムが間借りしていた協栄ジム(東京・新宿)にロシア人ボクサーが来日した。後のWBC世界フライ級王者・勇利アルバチャコフに交じり、当時W杯ヘビー級王者のスラフ・ヤコブレフがいた。スパーリングで実力を試すつもりが、ボディー一発で倒された。初めての経験だった。「すさまじいヘビー級のレバーだった。ボディーってすごいわ、これがないと世界はないと思った。それから練習し始めた」

 左ボディーを組み込んだコンビネーションで連勝街道を爆進した。東洋太平洋王座で連続防衛を果たし、「世界」がおぼろげに見えてくると、陣営は世界戦が決まる前からカストロへの挑戦を見越して「竹原の左」をさらに磨くことを考えた。どう攻略するか。会長の宮下政は「レバーだけは鍛えられない。これ以上きついパンチはない」と思案した。同時にタフな王者からスタミナを奪う上で竹原が得意とするボディー攻撃が最も有効だと考えた。宮下は「世間は竹原の左ボディーを『ラッキー』『奇跡』と言うけど、あのパンチは偶然ではなく練習に練習を重ねて狙うべくして狙ったパンチだった」と話す。

 長身186センチの竹原に対し、王者は176センチのずんぐりした体形だ。上体を振って突進してくるスタイルに、ついた異名は「ロコモトーラ(機関車)」。トレーナーの福田洋二は「馬力と強打の持ち主。ただの牛じゃない闘牛のようだった」と振り返る。

 23戦無敗でアルゼンチン出身のカストロに挑むまで、南米選手との対戦経験はなかった。ロサンゼルスで南米選手の動きに近い相手と仮想王者のスパーリングをし準備を積み重ねた。成果は世界戦の3回に出た。足を使い、相手より12センチ長いリーチで距離を測り、打ち合いでは一気に踏み込んだ。竹原の強烈な一撃にタフな王者がマウスピースを吐き、時間稼ぎをしたほどだ。福田が言う。「一発で形勢がひっくり返る階級にあって、ボディーは相手の懐に入らなければ打てないもろ刃の剣。そのパンチを打つ勇気が竹原にはあった」

 世界戦の実現を信じて猛特訓を重ねていた頃、水面下ではマッチメイクの交渉もまた大詰めを迎えていた。(小河原 俊哉)=敬称略=

 ◆手書き「ジャッペ」今も死闘を物語る
 1995年12月19日に行われたWBA世界ミドル級タイトルマッチの判定結果を記した手書きのスコアシート、通称「ジャッペ」(ジャッジペーパー)は、22年たった今も日本ボクシングコミッションに保管されている。最大6ポイント差をつけて3―0の判定勝ちで、3回のダウン奪取を含め4回までは竹原が圧倒。会長の宮下は「判定が割れた5~8回で竹原が前に出ていなかったらどうなるか分からなかった」。

最終更新:5/20(土) 14:18

スポーツ報知