ここから本文です

城之内獲得に始まる川上の雄大なV9土台づくり

5/21(日) 17:14配信

東スポWeb

【越智正典「ネット裏」】GWが明けた9日、連続3試合完封の巨人菅野智之が城之内邦雄の連続4試合完封に並ぶかどうか、注目されたが及ばなかった(阪神6回戦2対4)。城之内と聞いて私は城之内獲得に始まる、川上哲治の雄大なドラマのようなV9へのチームづくりを想い起こしていた。

 1960年秋、巨人ナインは川上が監督に就任すると歓迎した。前任の水原茂がいけないというのではない。選手は自分が監督にどう評価されているか、どう起用されるか、キャンプインのときからわかっている。が、監督が代わると目の色が変わる。新しく評価される。頑張ればポジションが獲れる。57年入団の投手中村稔が、正月休みもしないで、61年の元日にもう多摩川寮に宇治山田(伊勢市)から戻って来たのはその一例である。

 川上は監督第1年の61年、走者が出るとバント、また送りバント。やっと勝ったがネット裏からつまらない野球だと批判された。しかし、これしか勝つ戦法はなかったのだ。チーム打率は2割2分7厘。広岡達朗2割3厘。藤尾茂1割8分6厘。3割を打ったのは長嶋茂雄だけだった(3割5分3厘、首位打者、本塁打王)。王貞治はまだ2割5分3厘。

 川上は夜、後楽園球場で試合がある日も朝全選手に多摩川グラウンド集合を命じ、打ち込み。投手は投げ込み。春、自由打撃の打席に入った選手は「チームプレー、絶対ハンタイ!」。叫びながら打ち、レフトのネットフェンスのうしろの桜の樹にぶつけた。桜が散る。これが彼らの花見だった。が、土堤に川上が現れると首をすくめて右前にポテンと落とした…。

 実は川上は60年秋に監督になると、進んで兼ヘッドスカウトになり、毎日、西銀座の(当時)球団事務所に出勤。それから調査に。社会人野球日本ビールの城之内に着目。千葉県佐原(現香取市)の城之内の実家を訪ねた。スカウト自由競争時代である。

 事務所に戻ってくると、川上は「本人は一言も喋らなかった。何を訊いても」。何も掴めなかったと言っているように聞こえるが、川上は掴んだ。一途で不器用な若者だと。川上はゴツくて、不器用な選手が大好きなのだ。器用な選手はあれもこれも、サッサとやれるが不器用な選手は出来ない。出来ないからひとつのことに打ち込む。静岡での日米野球の全日本の宿舎、中島屋の風呂のなかで、阪神の(当時)田宮謙次郎に言っている。「謙ちゃん、お互いに不器用でよかったなあー」

 城之内が出来たのは走ることだけだった。61年春、法政大と日本ビールの練習試合があると聞いて川崎市木月の法政大グラウンドに行くと、城之内は登板ではなかった。私は少しがっかりしたが、すぐに驚きにつかまった。球審がプレーボールと、右手を挙げると、それをヨーイドンのかわりにしてゲームセットまで彼はグラウンド周囲を走り続けていたのだった。 つづく =敬称略=(スポーツジャーナリスト)

最終更新:5/21(日) 17:14
東スポWeb