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戦国若狭難攻不落の城下町訪ねて

5/24(水) 17:20配信

福井新聞ONLINE

朝倉氏の猛攻数年にわたって耐える

 福井県敦賀市から美浜町方面に向かって国道27号を走り国吉城トンネルを抜けると、左手に同町佐柿の集落が広がる。山々に囲まれた地形。通称「城山」(197・3メートル)の頂上には戦国時代、難攻不落の城として名高い国吉城がそびえていた。麓は城下町や宿場町として発展し、今も当時の名残が感じられる。

 国吉城は1556年、越前と若越の国境の境目の城として粟屋勝久が古城跡を改修して築城したとされる。国吉城に押し寄せた越前朝倉勢の侵攻を数年にわたり撃退し続けた籠城戦は、国吉城が難攻不落の城として名をはせるきっかけとなった。


 麓から城山の登山道を30分ほど進むと、発掘調査によって石垣などが出土した本丸跡に到着。城の出入り口である「本丸北西虎口跡」では縦1メートル、横1・5メートル、厚さ20センチほどの「鏡石」と呼ばれる大きな石も見つかっている。


 若狭国吉城歴史資料館の大野康弘館長は「鏡石は城主の権力の象徴。城下から見える位置に造られた石垣などと合わせて、城主の力を見せつける役割があった」と推測する。

朝倉氏退け信長、秀吉に味方

 1583年、国吉城に入城した木村定光は佐柿を城下町として整備すべく、丹後街道を城下の中心に通し、耳川までの直線道を開いた。街道沿いは間口が狭く奥行きの長い「短冊型地割」が行われ、今も細長い住宅が残る。


 佐柿国吉会の南完治会長(69)は「空き家になった両隣の土地を買い足し、今は大きい家が多くなったが、名残として井戸が幾つもあったり、敷地内に段差があったりする」と話す。(続く)

 国吉城は朝倉氏の侵攻を10年近くに渡って撃退し続け、後に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康も迎え入れたという。

 国吉廃城後の1634年、小浜藩主の酒井忠勝は佐柿を敦賀とともに小浜藩東部の政治・経済の拠点として位置付けた。御茶屋御殿を設置し、丹後街道の宿場町として変貌を遂げた。

 街道脇から山に向かって延びる細い路地がある。佐柿国吉会シャガの里づくり実行委員会の野瀬雅己委員長(66)は「子どものころ、近所の人から殿様のかごが行き来していた、と聞いたことがある」と振り返る。若狭国吉城歴史資料館は御茶屋御殿跡に建っている。



 当時の繁栄を感じさせる建物の一つが小畑家住宅。母屋屋根の鬼瓦には「弘化3年」(1846年)の銘がある。元は造り酒屋で、江戸時代までさかのぼる町屋建築は、県内でも貴重な建築物とされている。

 古い建物の玄関脇にある板張りで閉ざされた一角も当時のにぎわいを示す場所。街道を行き交う通行人に貸すトイレがあったという。「家に上がらずに通行人にトイレを貸す仕組みは、人が行き交う町ならでは」と野瀬委員長は目を細める。往来が盛んだったことは住民の名字からもうかがえ、南会長は「この集落はみんな姓が異なる。全国から職人らが集まったからだろう」と推測する。

 交通網の整備などで町の中心は耳川流域に移ったが、武長厚区長(62)は「自分たちの地域に国吉城があったことを皆が誇りに思っている。一人でも多くの人に佐柿を知ってもらいたい」と力を込めた。

福井新聞社