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株式取引所創設、米取引所復活に貢献 官有物払下げは失敗 五代友厚(下)

6/2(金) 15:40配信 有料

THE PAGE

 「大阪の恩人」と呼ばれる五代友厚(ごだいともあつ)は、大阪株式取引所の創設や米穀取引所の復活を通して、さらに地元の経済を盛り上げていきました。大阪商法会議所(現:大阪商工会議所)も創設し、会頭にも選ばれました。51歳という若さで他界しましたが、晩年の「北海道開拓使官有物払下げ事件」によって、私利私欲に走ったとされ、「政商」のレッテルを貼られてしまいます。最盛期から晩年の五代の経済人としての人生を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。


  米穀市場の復活と株式市場の創設

  五代友厚の業績の中で特筆されるべきものに米穀市場の復活と株式市場の創設がある。江戸時代から大阪のシンボルのように喧伝されてきた堂島の米相場が明治2年4月に禁止されて以来、金融は円滑さを欠き、物価は目標を失い、庶民の生活は不安定になっていた。

 五代は米相場を復活させなければならないと、豪商たちを曾根崎新地の料亭に集めた。鴻池善右衛門、三井元之助、磯野小右衛門、田中市兵衛、土居通夫ら大阪財界を代表する面々を前に熱っぽく復活論を訴えると賛同の声が相次いだ。

 三井:「五代先生が音頭取りになって米会所を再開してもらいたい」

 田中:「わてが博多で太物類(呉服)を仕入れていたとき、堂島の寄付き相場がすぐわかって、売値に迷っていた太物問屋が、わての付け値より安く売ってくれました。一体あれはどないして遠方に通報したのですか」
 
 鴻池:「それは米会所の近所の屋上に高いやぐらを設け、旗振り信号で順々に地方に伝達したのだす。和歌山などは3分、桑名、四日市、津、姫路、岡山なんぞは10分内外で通信していました」

 五代:「大体皆さんは米会所の再興にご賛同とみますから、わが輩が政府に対して運動を始めます。ついては皆さんの連判を求めますが、いかがですか」

 一斉に賛成の声が上がり、明治9年10月内務省から認可された。立会い初日の五代邸は市民の旗行列の波で取り囲まれた。堂島米会所の復興によって大阪における経済活動は燈明台を得た明るさを取り戻した。本文:4,049文字 この記事の続きをお読みいただくには、THE PAGE プラスの購入が必要です。

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最終更新:6/7(水) 5:58
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