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「投資の神様」ウォーレン・バフェットの驚くべき人生とキャリア

5/27(土) 12:10配信

BUSINESS INSIDER JAPAN

ウォーレン・バフェット氏が経営するバークシャー・ハサウェイ社の年次総会が今年も、5月6日に開催された。

ウォーレン・バフェット氏の写真

「資本家のためのウッドストック」「バフェット祭り」とも呼ばれる同イベントは金融界から大きな注目を集めている。

バフェット氏と副会長のチャーリー・マンガー(Charlie Munger)氏は5時間にわたって質疑に応答する。多くの場合、バークシャー・ハサウェイの経営状況よりもむしろ、バフェット氏が語る投資の知恵に注目が集まる。

バフェット氏が巨額の財産を得て人生で成功を収めたことを考えると、当然のことだ。86年の波乱万丈の人生で出会った、彼の興味深い出来事を紹介していこう。

「オマハの賢人」は、1930年、ネブラスカ州オマハで、ハワード・バフェットとレイラ・バフェットの息子として生まれた。

ネブラスカ出身の父は4期にわたってアメリカ下院議員を務めた人物で、株式ブローカーでもあった。

周囲の子どもたちが路上でボール遊びをしていた頃、バフェット少年は金融街の強者たちとかかわっていた。

バフェットは10歳にして、ウォールストリートで「人生の突然の転機」に直面した。

ニューヨークを訪問中、バフェット少年は父親に連れられて、ニューヨーク証券取引所の会員だったオランダ人At Mol氏と昼食をともにした。

「昼食の後、1人の男があらゆる種類のタバコをトレーに載せて運んできた。Mol氏がその中から好みの葉を選ぶと、その男は葉巻を作った。そこで、これだと思った。これが目指すべき高みだ。オーダーメイドの葉巻だと」とバフェットは当時を振り返った。

この瞬間、バフェット少年は、自分が金を稼ぐことに人生を捧げることになると悟った。

バフェット少年は早くから投資の魅力にとりつかれた。初めて株を購入したのは、11歳の時だ。

バフェット少年は1株38ドルのシティー・サービスの株式を3株購入した。その後株価は27ドルに急落したが、若きバフェット少年はそれを手放さず、1株40ドルに持ち直したタイミングで売却した。

彼が利益を得たことは素晴らしいことだが、その後、シティー・サービスの株価は最終的に1株200ドル近くまで高騰した。あと少し辛抱していれば、より大きな利益を得られるところだった。

この経験を通して、彼は金融に関する大きな教訓を得た。その教訓は、今日に至るまで彼の投資判断の基準となっている。それは「買ったら手放すな」だ。

若くしてビジネスに長けていた。高校生になると、友人と実入りのいいピンボールビジネスを始めた。

高校時代、彼は25ドルの中古ピンボールマシンを購入すると、友人のドン・ダンリー(Don Danley)にある計画をもちかけた。

「僕はこの古いピンボールマシンを25ドルで買った。お互いに協力しよう。君の役割はまとめ役だ。理髪店のフランク・エリコさんにこう言うんだ。『Wilson's Coin-Operated Machine Companyから来ました。提案があります。あなたには何のリスクもありません。エリコさん、店の奥にこの機械を置きませんか。お客さんは待っている間これで遊んでいられます。売り上げは折半しましょう』と」

2人は契約を結ぶことに成功した。マシンは瞬く間に人気となり、初日に4ドルも売り上げた。

2人は稼ぎを使い込まずに、新たなマシンに再投資した。

数カ月後、バフェット少年は街中の理髪店にピンボールを設置することに成功した。翌年、彼はこの事業を1000ドル超で売却した。

ピンボール事業の他にも、少年時代のバフェット氏は、新聞配達、ガムやソーダの販売、洗車など多数の風変わりなビジネスを手がけた。

様々なビジネスを通して、現在の貨幣価値に換算すると5万3000ドル(約600万円)というちょっとした財産を16歳で手にしていた。

バフェットは10代ですでに大きな財産を得ていたので、一流校であるペンシルバニア大学ウォートン校への入学を勧められても、意味を見出せなかった。

結局、父親の意をくむ形で入学したものの、2年で中退してネブラスカに戻り、ネブラスカ大学に再入学した。

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最終更新:5/27(土) 12:10
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