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英国、野心的なNHSのIT化に失敗

6/1(木) 14:00配信

ニュースソクラ

【資本主義x民主主義4.0】第一部 WannaCryの教え(3)国家プロジェクトが成功だったなら・・

 「犯罪は時代を映す鏡」と言われるが、イギリスの国民医療サービス(NHS)を混乱に陥れたランサムウェア騒動は示唆に富んでいる。

 サイバー犯罪のマルウェアが瞬く間に約150カ国20万台超のコンピューターを乗っ取った。マルウェアの原種は「世界最強のハッカー集団」米国家安全保障局(NSA)から盗み出された。そして仮想通貨ビットコインはサイバー空間での地位を完全に確立した。

 一方、現実世界では世界金融危機以降、政府の財政が逼迫し、NHSはマイクロソフトのサポートが終了したオペレーションシステム(OS)ウィンドウズXPを使い続けていた。

 イギリスでは2005年から診療情報を匿名化して活用する機関が設置され、大幅なコスト削減と医療サービスの向上を目指した。イングランド地方全体のNHSの患者記録や電子カルテ、X線やCT、MRIスキャンなどの画像データ、電子処方箋、電子メール、予約システムを中央で一元管理する極めて野心的な、いや野心的過ぎるプロジェクトだった。

 170万人のスタッフが働く巨大艦隊NHSをITで一元管理できれば、高齢化が進み医療費が4倍に膨らむとされるイギリスの「2050年問題」も解消されるはずだった。しかしNHSのITプロジェクトはあえなく頓挫し、13年に終幕を迎える。準備や見積もりが不十分でスケジュールが延び、予算が膨れ上がったからだ。

 イングランド南部地域を担当していた富士通も08年に契約を打ち切られ、総額8億9600億ポンドの契約をめぐって保健省と係争中だ。13年、英下院決算委員会はITプロジェクトの撤回による費用は100億ポンド近くになると見積もっている。富士通に保健省が7億ポンドを支払うことで和解かと報じられたが、昨年3月、富士通の現地最高責任者はメディアに「和解交渉があと2年ぐらいで片付くことを望んでいる」と語っている。

 富士通のシステムが完成していれば今回のランサムウェア騒動は防げたのではないかと富士通UKに問い合わせると、「その質問には答えることができない」(広報責任者)という回答だった。契約打ち切りに関する背景についても答えてもらえなかった。

 しかしNHSトラストの情報部門で働く関係者の見方は厳しい。「当時の保健省にはIT専門家がいなかったのか、専門家に相談しようという考えが思いつかなかったのか、結局、高い買い物をさせられてプロジェクトが失敗に終わるという典型的なITプロジェクトの結末を迎えた」と筆者に証言した。

 マイクロソフトオフィスの契約も保健省が取りまとめていたが、4、5年前からNHSの各トラストに権限が移された。ITによる一元管理という「中央集権」型から「地方分権」型に大きく方向転換したわけだが、それも破綻する。

 この関係者が働くNHSトラストでは2年前まで3分の2のパソコンはウィンドウズXPだったが、幹部がXPを使い続けることの危険性を理解できず、OSのアップグレードは遅々として進まなかった。ランサムウェアの騒動が起きた今もマイクロソフトから提供されたセキュリティーパッチをはって4台に1台のパソコンがXPで走っている。

 各トラストへの「地方分権」が進んだことで、逆にカネのないトラストはOSをアップグレードしたくてもできなくなった。

 問題はまだある。

 この関係者は7年前、別の病院で働いていたとき、病院の主なパソコンはすべてウィンドウズXP(01年~)にアップグレードされていたのに、目のスキャナー分析装置についているソフトはウィンドウズ95(1995年~)のまま残されている現実を目の当たりにする。スペシャリスト用プログラムのプロバイダーが、ハイピッチで進むOSのアップグレードに追いつけないのだ。

 これが100億ポンドをフイにしたIT化の悲しい結末だ。(つづく)


【用語解説】NHS(国民医療サービス)

 第二次大戦後の1948年、貧富の格差に関係なく、公平な医療サービスを無償で提供することを目的に設立された。「ゆりかごから墓場まで」の福祉国家モデルで、2012年ロンドン五輪の開会式セレモニーで紹介された英国民の誇りである。原資の大半は税収と国民保険。「原則、無償」という建前は保たれているが、統計の見方によっては民間医療の割合はすでに全体の1割を超えている。

 その大きさは――。12年当時で世界最大の雇用主は(1)米国防総省320万人(2)中国人民解放軍(PLA)230万人(3)米スーパーマーケットチェーン、ウォルマート210万人(4)米ファーストフードチェーン、マクドナルド190万人(5)NHS170万人。

■木村 正人(在英・国際ジャーナリスト)
元産経新聞ロンドン支局長。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『欧州 絶望の現場を歩く―広がるBrexitの衝撃』(ウェッジ)、『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。

最終更新:6/1(木) 14:00
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