ここから本文です

六大学を支えた関口昌男の苛烈な日々

6/4(日) 17:21配信

東スポWeb

【越智正典「ネット裏」】東京六大学春のリーグ戦が始まってから、私は3月31日で早大先輩理事の任務を終えた関口昌男に、ご苦労さまでした、と挨拶一礼しなければ…と思っていた。6年12季。リーグ戦は土、日に挙行。1勝1敗なら月曜も。雨天順延があれば火曜日も…神宮球場に詰めなければならない。家族サービスなどできない。

 第7週第1日、明大―立大、東大―法大の朝、アポをもらおうと電話をかけた。早大の試合はない。在宅しているはずだ。彼の家の近くまで行くのがスジである。が…。

「いま神宮球場です。5校に優勝のチャンスがあるんです。早稲田にも少しあります。それで明、立、東、法大はどんな様子か見に来ているんです」

 私は感嘆した。神宮球場の近くで会った。彼はこの場合はこう、こうなると優勝はここ…と一覧表を作って持っていた。今度はうなった。

 仙台二高の強肩強打の捕手、関口昌男が早大に入学したのは、日本がようやく戦後をくぐり抜け始めようとしていた1958年である。六大学では立大が前年に続いて春秋連覇をすることになる年である。慶大の地元日吉ではハイボールが60円。早大の地元高田馬場で50円…。関口はハイボールどころではない。旧戸塚、安部球場の中堅奥のブルペンに、日が暮れ、球が見えなくなるまでしゃがみ通しであった。上級生から、関口、受けてくれと指名が相次いだ。捕球、返球が誠実だったからである。

 岡田芳和(関東学院)、西寿(高松)、貞弘龍男(天理)、高倉久志(門司東)、西蓮寺斌(早実)、奥村孝弘(岐阜)、金沢宏(岩国)、同期生のあの安藤元博(坂出商)。2年になると、下級生にもせがまれた。蒲原弘幸(田園調布)、公文博孝(土佐)。授業をやり繰りして午前中に受けた。だれもが少なくても200球の投げ込みをやるから、1日に2000球は捕った。

 いずれ次の正捕手と見られたが、そうはならなかった。苛烈な日々を乗り越えて卒業した。卒業後もミットをはめていた左の人差し指は腫れ上がったままで冷たくなっていた。激痛が走るらしく、人に見られないようにして手当てしていた。六大学を支えて来たのは彼のような男たちである。

 第8週、早慶1回戦、彼はうれしそうであった。

「上春三郎先輩(高松一)がお見えになりました」

 早慶2回戦。慶大が敗れ、立大の優勝が確定した。彼は愛媛県西条の稲門倶楽部幹事と観戦していた。

「夏に西条で全早慶戦があるんです。みんなで行って来ます」

 開幕の早慶3回戦もスタンドにいた。

「西条の前に熊本で全早慶戦があるんです。たのしみにしています」

 感嘆をとおりこしてあきれた。いい男である。世の中に出てから多くの苦難もあったろうに、人生何事もなかったようにいつも微笑を湛えている男である。=敬称略=(スポーツジャーナリスト)

最終更新:6/4(日) 17:21
東スポWeb

スポーツナビ 野球情報