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<老いと向き合う5>失った父の遺産 街金へ…書類に印、所有権消滅

6/5(月) 4:30配信

埼玉新聞

 2014年師走。埼玉県の大宮駅周辺はいつにも増して慌ただしく人が行き交っていた。肌を刺すような寒さの中、川中正一さん(73)は1人、狭い間口の店舗を探した。「頼れる人はいない」。目当ての看板を見つけた。気持ちは焦っていた。退職後、建て替え費などの返済が滞り、債務残高は計3500万円。まとまった額を返済しなければ、両親から継いだ川口市の自宅が競売にかけられてしまう。「自宅を守りたい」。すがる思いで向かった先が、知人に「街金」と紹介されたヤミ金融だった。

 現れたのは派手な身なりをした若い男。丁寧に話を聞いてくれた。「この人なら信用できるかもしれない」。そう思ったのが甘かった。自宅や不動産の権利証を全て渡し、数回にわたって計4100万円の融資を受けた。説明も受けないまま、男の指示通りに30枚以上の書類に署名した。気付けば、相続した時価約2億円の不動産と自宅は、たった6千万円で売買契約が結ばれていた。

 所有権は全て消滅。財産はなくなり、残ったのは孤独な老後だった。不動産会社からは立ち退きを求める訴訟を起こされ、裁判所は土地の明け渡しを命じる判決を下した。「家を失ったら、もう死ぬしかない」。控訴したが、書類に印を押している以上、判決を覆すハードルは高い。

 貯金はなく、元々経営していたスナックの収入のみが頼りだが、客はあまり来ない。手元に現金が残ることはまれで、電気やガスは度々止められる。一日何も食べられないこともあり、小腹がすけばもらい物の菓子でしのぐ。「生きていたって、しゃあない。こんなはずじゃなかった」

 若い頃に思い描いていた夢は、妻子と暮らす平凡な家庭だった。仕事から帰れば自宅から明かりが漏れ、温かい夕食が用意されている。そんな幸せさえもつかむことができなかった。中学卒業後、左官業に就き仕事に明け暮れた。5人きょうだいの長男。弟や妹はそれぞれ結婚を機に家を出た。母親は若くして亡くなった。

 支えだった父は1984年に他界。直前、父の見舞いに行くと、口を開けて言葉を発しようとした。「家を守ってほしい」。そう言われた気がした。自分が14代目。途切らせるわけにはいかなかった。「心配かけてしまってごめんなさい。どうか力を貸してください」。仏壇にそっと手を合わせる日が続く。

 頑固だった父は口うるさかった。時に、疎ましいと思ったこともある。ただ、今思うと「頼りにしてくれていたと思う」。さいたま市岩槻区の元荒川や戸田市の釣り場に出掛けては、よく一緒に釣りをした。釣り仲間が集まる大会で、大きなブナを釣って大賞に選ばれた際、父は何も言わずにうなずいた。父を超えられた気がした。自宅に飾った賞状を見ると懐かしさがこみ上げる。

 最近、眠りは浅い。空腹を紛らわせるため午後8時には床に就くが、度々目を覚ます。一日が長い。しんとした8畳の居間にテレビの音量だけが漏れる。1人にはもう慣れた。(文中仮名)

 (この連載へのご意見やご感想を〒331―8686 さいたま市北区吉野町2の282の3 埼玉新聞社「老いと向き合う」取材班までお寄せください。ファクスは048・653・9040。電子メールはdokusya@saitama-np.co.jpです。)

最終更新:6/5(月) 4:30
埼玉新聞