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【あの時・増田明美 栄光と挫折】(1)天才少女の静かすぎる幕引き

6/5(月) 15:02配信

スポーツ報知

 マラソン解説からNHK連続テレビ小説「ひよっこ」のナレーションまで、活躍の幅を広げているスポーツジャーナリストの増田明美。1984年8月5日、ロサンゼルス五輪で、初めて実施された女子マラソンのスタートラインに立った先駆者だった。千葉・成田高3年時に長距離の日本記録をすべて塗り替え、「女瀬古」と呼ばれた天才少女の栄光と挫折に迫った。

 ロサンゼルス郊外のサンタモニカ・カレッジ。84年8月5日の現地時間午前7時30分、五輪の新時代を告げるパイオニアとなった50人のランナーがスタート位置に立った。初採用の女子マラソンに、日本からは佐々木七恵(エスビー食品)と増田(川崎製鉄千葉)の2人がエントリー。2時間30分30秒の自己記録を持つ増田は、メダル候補としても期待されていた。だが、そこにいたのは本来の増田ではなかった。

 この年の春。五輪代表に決まった増田は、暑さに対応できるよう、宗茂、猛兄弟(ともに旭化成)らとニューカレドニア、宮古島などで合宿した。「当時は何もデータがなかった。“実験台”だったかもしれません。考えてみれば、ロスとは暑さの質が違う」。35度を超える暑さに加え、高い湿度の中、40~50キロを走る練習。150センチ、39キロの体は次第に悲鳴を上げた。練習について行けず、宮古島では5000メートルで地元の女子高生に負けた。

 失いつつある自信に反比例して高まる期待。大会1か月前の7月5日に、増田は“問題行動”を起こした。千葉で行われた所属先の壮行会を無断欠席したのだ。その日の朝、電車に乗ると鎌倉の中吊り広告が目に入った。「みんなで行ったな…」。考えていると、途中で降りることなく、鎌倉までたどり着いた。鶴岡八幡宮と江の島へ。カツ丼と親子丼を食べ、江の島の海を眺めた。「完全に逃げたい、シャボン玉のように消えたいという気持ちの方が強かった」

 思い直して「帰らなきゃ」と戻る決意はするが、向かったのは壮行会場ではなく、実家に近い千葉・一宮町。夜7時過ぎに社員寮に立ち寄って電話をしたことで無事が確認された。「自分のしたことは許されないことだけど、当時は大騒ぎになっていることすら感じなかった」という。

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最終更新:6/5(月) 15:02
スポーツ報知