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【あの時・増田明美 栄光と挫折】(2)制服で通学路走ったら日本記録

6/5(月) 15:02配信

スポーツ報知

 1981年4月12日。千葉・船橋で行われた女子ロードレース大会。高校10キロの部で、ほぼ無名の少女が33分9秒で走り抜けて優勝した。翌日の紙面では「増田明美さん」として掲載されている。非公認ながら、当時の日本最高記録から4分以上も速いタイム。「主催者の方は距離が間違っているんじゃないか、って疑われたらしいです」と苦笑いしながら、振り返った。

 その1年半前。増田はどん底だった。ソフトテニス部から陸上に転身し、中学3年で全国中学大会800メートル4位。陸上の名門・成田高(千葉)の滝田詔生(つぐお)監督から「一緒に富士山のテッペンに登ろう」と勧誘を受け、進学を決意した。滝田の家に下宿しながら才覚を現し、1年生ながら全国高校総体出場を果たしたものの、本戦は予選落ち。慣れない環境下、増田は貧血になっていた。夏が終わると、滝田から「増田、マネジャーになってくれないか」と打診を受けた。

 日本一を目指すんじゃなかったのか―。増田は反発し、陸上部を離れた。千葉・岬町(現いすみ市)の自宅に戻り、2時間半かけて学校に通った。「悔しいけど、違う夢がある」。小さな頃から憧れていた先生になるべく、帰りの電車内では授業のノートを暗記し、学年トップクラスの成績を残した。

 1年が終わる頃、体育の担当教諭でもあった滝田から「顔色良くなったな。戻ってこないか」と言われ、悔しさ半分で了承した。だが、入学当初に勝っていた選手にも走り負けた。「今に見てろよ」。当時の練習ノートにつづった増田は練習後、教室に戻って、ほかの選手には秘密で腹筋を繰り返すようになった。多い時には1日合計5000回に及んだ。もともと、身長150センチと小柄な増田にとって、ライバルに勝つにはストライドを大きくすることが必要。そのためにも腹筋を鍛えることは重要だった。

 厳しい練習に耐え抜いた増田は、あることに気付いた。学校から新勝寺を通って成田駅まで戻る約1・5キロの帰り道。制服姿で駆け抜けると、タイムは当時の日本記録だった4分21秒よりも速かった。「もしかして…」。雌伏の1年半を経験した増田は、高校3年時に史上最強ランナーに生まれ変わった。船橋のレースの翌週、5000メートルと1万メートルで日本記録を樹立すると、卒業までトラック、ロードの長距離種目で、延べ13回も日本記録を塗り替えた。中距離ランナーのようなスピードで走り抜ける姿から「女瀬古」の異名もついた。

 仕上げは18歳になって出場が可能となったフルマラソン。千葉・光町で行われた大会で2時間36分34秒の日本最高記録をマークした。当時、公認された日本記録は5000メートルからフルマラソンまで、全て増田の名前で埋め尽くされた。「あの頃は本当に走るのが楽しかった」。高まる期待を胸に、滝田とともに川崎製鉄千葉へ入社。今度は世界のテッペンを目指す―。増田の未来は前途洋々のはずだった。(遠藤 洋之)=敬称略=

最終更新:6/5(月) 15:02
スポーツ報知