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【あの時・増田明美 栄光と挫折】(3)宗兄弟との練習で取り戻した走る楽しさ

6/5(月) 15:10配信

スポーツ報知

 1982年。社会人になった増田明美は、5月に1万メートルで日本記録を更新した。競技生活は順調に見えた。川崎製鉄からは、練習拠点となる母校・成田高の校内に最新のトレーニング器具と、ともにコーチとして入社した恩師の滝田詔生(つぐお)の家近くにマンションも用意してもらえた。だが、心にモヤモヤが残っていた。

 最も違和感を覚えたのは、増田の“練習パートナー”がいなくなっていたことだ。高校時代は、男子部員が相手。増田に負けるのが悔しくて、つばを吐きかけながら追いかける同級生もいた。成田高は駅伝で県内有数の強豪校。日本最速とはいえ、同級生の女子選手に負けられないプライドがあった。だが、社会人になると同校の後輩との練習は断られた。

 滝田は元々、日体大の相撲部出身。特にマラソンに関しては指導法を確立できていなかった。「この時期は先生を信じられなくなっていた」。ライバルの佐々木七恵がエスビー食品に入社し、瀬古利彦を指導していた名伯楽・中村清のもとで記録を伸ばす中、増田はひとりきりの練習で「体重を落とせば記録は伸びる」と食事制限をするなど、知らないうちに追い込んでいた。翌年1月の大阪国際では14・7キロで昏倒。救急車で運ばれた。診察した医師から「口外しにくい」と告げられた症状は栄養失調。体重は37キロまで減っていた。

 再びどん底に落ちた増田を意外な人物が救った。当時、旭化成を率いて宗茂、猛兄弟を育てた名将・広島日出国だ。

 大会後、滝田の元に電話が届き「増田にマラソンの走り方を教えたい。借してくれないか」。迷わず宮崎・延岡に飛んだ。宗兄弟に40キロついていくのは必死だったが、久々に楽しさを感じた。ぶれないランニングフォーム、タイムにこだわらない練習はもちろん、競り合うパートナーがいることが新鮮だった。速いペースを出してパートナーの若手選手を数人故障させてしまったが「もう一度、走る楽しさを感じた」。手応えとともに記録は再び上向く。

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最終更新:6/5(月) 15:10
スポーツ報知