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【あの時・増田明美 栄光と挫折】(4)失意からの復帰…体が気持ちに追いつかなかった

6/5(月) 15:10配信

スポーツ報知

 失意のロサンゼルス五輪から1年半がたった1986年春。増田明美は米オレゴン州ユージーンにいた。当地の大学で練習を再開するためだ。五輪後、一度は第一線から退き、もうひとつの夢だった教師を目指すため、85年春、法大社会学部に入学した。だが、次第に走りたい気持ちが大きくなった。日本陸連の小掛照二強化委員長(当時)に相談すると「日本だと周囲がうるさいだろうから」と、日本電気(現NEC)の資金援助を受ける形で留学の道が用意された。

 迎えてくれたのはブラジル人コーチのルイーズ・オリベイラ。チームには83年世界陸上1500メートル、3000メートル優勝のメアリー・デッカー(米国)やロス五輪男子800メートル金メダルのジョアキン・クルス(ブラジル)ら、当時の世界トップクラスの選手がそろっていた。少しでも認めてもらいたい。するとオリベイラから、増田に思わぬ声をかけられた。

 「あなたを見ていると、つらい。いつも結果を出さないといけないと思って走っているだろう。そうではない。結果はハッピーだと自然に思えるようになって出るものなんだ」。目からうろこが落ちた。日本では常に結果を追い求めてきた。だが、ユージーンで見たトップ選手は練習の合間に子供たちと遊んだり、パーティーに参加するなど、私生活も充実させて競技を続けてきた。1年半の留学生活。単身で米国内の大会に参加しながら「自分がハッピーになってこそ充実できる」と実感することができた。

 心の面では大きく成長して87年秋に帰国したが、増田を待っていたのは時代の大きな変化だった。翌年に控えたソウル五輪では女子1万メートルが正式種目となるなど、女子の長距離路線が拡充され、選手層は厚くなっていた。日本電気所属として復帰戦となった12月の全日本実業団女子駅伝(岐阜、4区=10キロ)では8人抜きを見せたが、同年の国体5000メートルを制した松野明美(ニコニコドー)にかわされた。「私よりも体が小さい子に抜かれてビックリした」。全盛期にはない経験だった。

 加えて、体が気持ちに追いつくことができなかった。右足痛などの影響で万全でないまま臨んだ翌年1月の大阪国際では2時間51分53秒の30位。ソウル五輪代表にはなれなかった。89年11月の東京国際では日本人トップの8位となったものの、競技者としての引退レースとなった92年大阪国際まで、体のどこかに痛みを感じていたまま走り続けていた。

 右足に激痛が走り、16・8キロで途中棄権した最終レースの翌日。所属先の村尾慎悦監督と駿河台の日本大学病院に向かった。磁気共鳴画像装置(MRI)で検査をすると、右足甲や股関節など7か所を疲労骨折していたことが分かった。「ここまでひどい状態は見たことがない」。医師の言葉に、村尾がつぶやいた。「疲労じゃない。過労だよ」

 増田は足を止めた。(遠藤 洋之)=敬称略=

最終更新:6/5(月) 15:10
スポーツ報知