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【のびやかに・浜木綿子】(3)0点のテストを捨てて…バレた

6/8(木) 15:02配信

スポーツ報知

 3人姉妹の次女として1935年に生まれた私は、いまの東京・目黒区緑が丘で育ちました。2つ上の姉は目鼻立ちのはっきりしたきれいな顔立ち。それに比べ、自分は劣っていると思いました。

 父は大阪の人で、家では関西弁が飛び交うこともありました。同じ日本語なのに言葉のリズムの違いを楽しみながら、標準語と両方を話せるようになっていました。

 母は寛容な人でしたが、祖父が徳川家の家老で武家育ちの娘らしく、厳しく育てられたと聞きました。三味線、琵琶などいろんな楽器をこなせた父は、母方の伯父(浜島昇氏)が日本光学工業(現ニコン)の社長を務めた時期もあって同社の重役になったこともあります。なので、私はいまも取材時に記者の方がどこのカメラを使っているのか、つい見るクセがあります。

 自宅にはプールがあってお手伝いさんが3人。裕福で恵まれていたと思います。派手に映るかもしれませんが、両親は古風で堅い考えの持ち主。子供へのしつけは厳しいものでした。

 家のトイレ掃除は、私と姉と6歳下の妹の3人の仕事と決まっていました。母がいつも言っていたのは「お嫁に行った時に困らないように」でした。きちんと何かできることが増えるたび、「よくできました」と手書きされた“お免状”をもらうのが楽しみでした。

 でも不思議です。同じ環境に育ちながら、姉妹で性格が3人全く違うのですから。姉も妹も控えめ。私は好き嫌いがはっきりしていて、こうと決めたらテコでも動かない。どうしてこんな性格になったのか、自分でも分かりません。

 小学校の時、算数のテストで0点を取ったことがありました。先生のことが苦手で、いくつか解ける問題もあったかもしれないのに白紙で出したのです。「0」と書かれて返ってきました。

 そんな答案用紙を、家には持って帰れません。私はクルクルッと丸め、下校中、どぶに投げ捨てたのです。誰かが拾って届けてくれたのでしょうか。これがバレて、母にひどく叱られました。それも点数のことではなく、物事を教わる姿勢や大事なものを粗末に扱ったことに対してでした。

 この時期で思い出すのは、食べ物のことです。朝食に出るおみそ汁が嫌でした。今は好きなのに、子供の時は飲めませんでした。捨てるのはもったいないので、おわんにつがれたものを母に見つからないよう、こっそりお鍋に戻したりしました。

 いま、偏食はなくなりましたが、茶わん蒸しはあまり食べません。幼い時から、きれいな黄身と白身がぐちゃぐちゃになり、さらに肌色に変色するのが、なぜか許せないのです。小さな“事件”を含めた思い出の数々。懐かしいですね。しかし、満ち足りた家族との日々は、戦争によって一変してしまうのです。(構成 編集委員・内野 小百美)

 【東京の区の歴史】目黒区誕生は1932年(昭和7年)で「大東京35区」のひとつだった。現在の23区に整理統合されたのは47年(同22年)。正式に列記する場合、千代田区を最初に中央区、港区…と順番が決まっている。麹町起点に旧市域を時計回りに「の」の字を書き、その後に品川区、目黒区…と新市域を「の」の字の順で。最後に江戸川区がくる。

最終更新:6/8(木) 15:02
スポーツ報知