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【のびやかに・浜木綿子】(4)終戦…豊かな日々から貧乏のどん底に

6/9(金) 15:02配信

スポーツ報知

 私と歌との出会いは、いまも目黒区にある若草幼稚園に通っていたころにさかのぼります。児童合唱団に入り、慰問で兵隊さんの前で童謡を歌い、早稲田や慶応の学生さんにおぶってもらって帰宅することもありました。まだ慰問の意味も分からず、純粋に歌がただ好きで歌っていました。

 東京で空襲が始まると、両親は姉と私を、母の親戚が住職をしていた長野・木曽郡の寺に縁故疎開させました。でも転校すると「都会の子」と指をさされ、なかなか溶け込めませんでした。何も悪いことはしていないのに、なぜひどい目に遭わなければならないのか。悔しさと悲しみが込み上げました。忍耐強く、温厚な姉が側にいなければ、耐えられなかったかもしれません。

 きれいな服を着ていくと悪目立ちするので、わざと服を破ったり足袋には穴をあけたり。姉が継ぎはぎだらけに作りかえてくれました。母に習った裁縫は、お嫁さんになったときの準備。本来、こんなことをするためではなかったのに、と思うと胸が苦しくなりました。

 疎開で、なぜ家族と離ればなれに暮らしているのかも、幼い私はよく理解できていなかったと思います。6歳下の妹だけは、まだ小さかったので両親のもとにいました。自宅の防空壕(ごう)で、みかんを持ってそこに入り、ひとり寂しく待っていたそうです。いまも、その時の記憶がよみがえることがあるようで、妹は「みかんは食べたくないわ」といいます。一見、何不自由なく過ごしていた子供の心にも、見えない戦争の傷を残しているのです。

 終戦時、私は9歳でした。校庭でラジオの昭和天皇の玉音放送を聞きました。何をおっしゃっているのか、難しくてよく分かりません。でも、集まっている先生方など、そこにいるみんなが泣いていました。大人がこんなに激しくむせび泣くこともあるのだ、という光景に打ちのめされ、いまとんでもなく恐ろしいことが、起きているのだろう、ということだけは分かりました。

 疎開先から帰京し、家族みんなに再会できることは、何よりの楽しみでした。再び、以前のような生活に戻れると勝手に想像していました。ところが、プールがあってお手伝いさんも一緒に住んでいた自宅は、進駐軍に接収されていました。

 母は寂しそうに「いきなり土足で家の中に入ってきたのよ」と、接収の様子を教えてくれました。住み慣れた我が家だけでなく、そこで生まれたいとおしい思い出までもが引きちぎられ、奪い去られていくようでした。住むところを失い、食べるのも一苦労で、母は、大事にしていた琴も売ってしまいました。

 豊かな日々から貧乏のどん底へ。人生に絶対というものはなく、一寸先に何が起きるかも分からない。子供ながらに、幸せのはかなさを思い知らされ、自分の生き方を真剣に見つめ始めるようになるのです。(構成 編集委員・内野 小百美)

 ◆玉音放送 1945年(昭和20年)、8月15日正午、日本放送協会(NHK)は、昭和天皇が自らの声でポツダム宣言を受諾し、戦争を終結させることをラジオで放送。国民が天皇の声を聞いたのは、この時が初めて。ここに至るまでの経緯や起きた事件は2度映画化された半藤一利氏の「日本のいちばん長い日」が詳しい。

最終更新:6/9(金) 19:06
スポーツ報知