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「Z機」と呼ばれた幻の爆撃機・富嶽 編隊での米爆撃構想裏付ける護衛用「掃射機」の設計図発見

6/11(日) 13:00配信

産経新聞

 先の大戦末期、米爆撃機B29に対抗すべく中島飛行機(群馬県尾島町=現・太田市)で設計されながら、戦況悪化で幻に終わった爆撃機「富嶽(ふがく)」。すでに見つかっているB29の1・5倍とされる大型爆撃機や、輸送機タイプなどの設計図に加え、新たに護衛用の掃射機の設計図が太田市内で発見された。中島飛行機創業者の飛行機王・中島知久平(1884~1949年)は、富嶽を最終兵器を意味する「Z機」と呼んで起死回生を狙っていたが、掃射機の存在によって知久平が爆撃機を軸に各種富嶽が編隊を組み、米本土を目指す構想を立てていたことが裏付けられた。

 ■陸軍と海軍で2種類の掃射機

 見つかった掃射機の設計図は2種類で、作製は昭和18年。いずれも胴体腹部に400挺の機銃が縦列に装備されていた。2種類は、陸軍機を造っていた中島飛行機太田製作所と海軍機を請け負っていた同小泉製作所(現・大泉町)とで異なった大きさと用途を持っており、太田製作所の設計図は同年1月に作製された。装備された武器と想定乗員13人を含めた全備重量57・5トン、速度は最大時速543キロ。護衛機以外に巨大な機体を生かし輸送機としても期待されていたとみる関係者もいる。既に米国に制海権を奪われていた日本にとって、艦船に代え新たな兵員などを送り込む上で、輸送機が不可欠だったからだ。

 一方、小泉製作所の掃射機は、太田工場より3カ月遅い18年4月の設計。全備重量90トン、乗員10人。上空1万3千メートルでの速度は最大時速800キロ、7・7ミリ機銃400挺か20ミリ機銃150挺が搭載可能。護衛専門で交戦時は機銃掃射で敵艦や敵機の力を削ぐことが想定されていた。

 ■ミッドウェー敗北から生まれた「Z機」構想

 中島知久平が富嶽を構想したのは昭和17年6月、快進撃を続けていた日本軍が米軍に大敗を喫したミッドウェー海戦だった。極秘扱いだった戦況を海外情報を通じて知った知久平は、米国が航空機中心の戦法に切り替えたことを悟り、同年暮れ、危機感から「現戦勢ヲ打開シ、必勝態勢ヲ確立スルタメニハ」との前文で始まる「必勝戦策」を書き上げる。「飛躍的新構想」と自ら称した態勢の中心が大型爆撃機による米本土攻撃。知久平は日本の命運を握る最終計画を意味する「Z機」と呼んだ。後の富嶽である。

 知久平は「必勝戦策」で当時、日本が直面する3つの国防の危機を(1)「生産戦ニ因ル国防ノ危機」(2)「大型飛行機出現ニ因ル国防ノ危機」(3)「欧州戦局ヨリ波及スル国防ノ危機」-として挙げた。

 (1)は1対50と見積もった米国との圧倒的な工作機械の生産能力の差で、“大和魂”をもってしても覆すことはできないとした。

 (2)は米国で進む大型、大馬力の飛行機開発のことで、その後、登場するエンジン4基のB29の上をゆく6基搭載の大型爆撃機(米国ではB36建造が計画されていた)が完成し、昭和20年後半には日本本土が爆撃の危機にさらされると説いた。

 (3)は枢軸国側の惨敗を想定し、ドイツは共産主義の欧州波及を防ぐ盾として存続させられるが、日本はアジア民族蜂起の起爆剤になるため抹殺されるだろうと説いた。

 以上3つの危機を回避するには、「普通ノ構想水準ヲ甚ダシク跳躍セル」新構想、つまり常識を超えた“超弩級”の大型爆撃機を開発し、アメリカ本土の飛行場、飛行機工場を叩くしかないとした。

 ■技術者に命じた“超弩級”大型爆撃機の設計

 昭和18年1月、知久平は中島飛行機の技術者を集め「必勝防空研究会」を立ち上げ、当時としては規格外といえる以下の条件を示した。

 「全長45メートル、全幅65メートル、全備重量175トン。5千馬力の発動機を6機搭載。高度1万メートルを時速680キロで航行し航続距離1万6千キロ。爆弾積載量は約20トンとし、航続距離を減らせば50トンまで運べること」

 この性能は米軍が計画し終戦直後に完成したB36とほぼ同じだ。知久平は米本土攻撃用の6発爆撃機を「Z機」と呼び「Z爆撃機」のほか、装備を換えた「Z掃射機」「Z輸送機」などを目的に応じて使い分けることを構想した。今回、設計図が見つかったのがZ掃射機で、機関砲や機銃を積んだ「護衛機」としての役割を担い、爆撃機より小ぶりな「4発掃射機」として設計された。

 「隼」「疾風」などの戦闘機、艦上攻撃機「天山」、艦上偵察機「彩雲」など、大戦中に活躍する優れた軍用機を建造した知久平だが、「必勝戦策」では軍用機をより戦略的な兵器ととらえ、「飛行機ノ重要目的ハ敵ヲ爆滅スルコトデアッテ、其ノ他ノコトハ枝葉末節ノ些事デアル」と断言。日本本土を狙われる前に米国の飛行機工場を爆撃し、飛行機を一切生産できないほどの損害を与えなければ日本の勝機はない-と見ていた。

 ■命名「富嶽」も東条内閣倒れあっけなく消える

 Z計画の壮大さに息を呑んだ技術者たちは、実現可能性の調査を経て昼夜問わずの突貫工事で設計に当たった。一方、18年8月、「必勝戦策」は内閣や軍部に配られ、当初は渋っていた東条英機首相も同年9月のイタリア降伏など戦況悪化が重なる中、重い腰を上げた。Z機は、その壮大な姿から「富嶽」と名付けられ、19年2月、知久平を委員長とする「試製富嶽委員会」が発足、軍試作機として正式に採用が決まった。

 しかし壮大な計画は難問だらけで、例えば5千馬力の発動機の冷却技術が当時の日本では確立されておらず、仕様の決定に手間取った。共同開発を決めたはずの陸海軍の足並みもそろわず、製作の遅れに繋がった。何より決定的だったのが同年7月の東条英機内閣の総辞職だった。後継の小磯国昭内閣は製造中止命令を発出。富嶽はあっけなく消え去った。

 1年後、日本は敗れ、Z計画はもちろん各種関係書類は焼却、散逸する。富嶽の設計図は唯一、尾島町の中島本家で知久平の妹あやが保管、平成4年に知久平の長男・源太郎が死去した後、中島家の隣人で機械加工会社を経営していた正田公威(こうい)さんが預かり保管した。掃射機の設計図も正田家から見つかった。

 ■幻の機体、地元・太田の空を舞う

 設計段階で潰え、製造されなかった富嶽だが、太田市内では現在、定期的に雄姿を見ることができる。公威さんの次男・雅造さん(68)が11年、中島飛行機の流れを汲む富士重工(現SUBARU)などのOBらと「富嶽を飛ばそう会」を結成、残された設計図をもとに12分の1から15分の1スケールの精巧なラジコンをつくり、これまで爆撃機、輸送機、旅客機タイプを飛ばしてきた。旅客機の設計図は実在しないが、生前「戦後は富嶽を世界周遊できる旅客機に」と語っていた知久平の意思を引き継ぎ、2つあった輸送機の設計図のうち1つを“旅客機”と命名した。

 完成したラジコンは展示会などにも出展され、幅広く活動しているが、今回見つかった掃射機のラジコンを造るかどうかは未定という。同会事務局の西正裕さんは「メンバーの高齢化に伴いラジコン製作が困難になっている。一緒に活動してくれる飛行機好きな若い人が加入してくれれば」と期待を寄せる。

 見つかった掃射機の設計図について、戦時中の軍用機に詳しい東洋大学講師の水沢光さん(79)は「海軍系の小泉製作所と陸軍系の太田製作所がそれぞれ設計を進めていたことが読み取れる。中島飛行機が社をあげて、設計を進めていたことが、具体的な資料によって明らかになったといえる」と語った。

 また、知久平を研究している前橋市文化国際課の手島仁参事は「掃射機の設計図が現存したことで、中島飛行機内の研究がかなり具体的なものだったことが伺える。掃射機は爆撃機と違い、機銃掃射から輸送までこなす完結した戦闘機だったのではないか」と話した。

                       (前橋支局 住谷早紀)

  

 ■中島知久平(1884~1949) 尾島町の農家に生まれ、尋常高等小学校卒業後、海軍に入隊。当時まだ木製だった飛行機が将来「国防上、最重要になる」と見抜き、飛行機工場長に。海軍初の制式機を設計するなどの業績を残し大正6年に退役。中島飛行機を興し戦史に残る数々の名機を建造、一大企業に育て上げた。退役時、知久平は軍関係者に送付した「職退の辞」で航空戦時代を予言。「金剛級の戦艦一隻で3千機、1艦隊分で数万の飛行機が製作可能。各自に魚雷を装備すれば金剛よりはるかに高い戦闘力を得る」と訴えた。欧米に生産力で劣る日本が戦艦建造を続けても財政を逼迫させるだけだが、飛行機なら少ない資金で量産が可能とし、技術力で米国に並ぶ日本が資金を集中させれば超高性能の飛行機を開発でき戦争の主役になると説いた。富嶽もこの延長線上で構想されたが、戦艦至上主義は敗戦まで軍内部に色濃く残った。戦後、中島飛行機は財閥解体を経て富士重工(現在のSUBARU)となり、自動車メーカーとして発展した。

最終更新:6/11(日) 13:00
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