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【静岡古城をゆく】引馬城(浜松市) 籠城2カ月、今川氏へ最後の抵抗

6/11(日) 7:55配信

産経新聞

 今川氏の遠江侵攻は、応仁・文明の乱という日本国中が大いに乱れた文明6(1474)年頃から始まる。今川忠義は文明8年に横地・勝間田両氏を破り、凱旋(がいせん)途中の塩買坂で残党の手により戦死するが、跡を継いだ氏親は明応3(1494)年から北条早雲の手を借りて遠江侵攻を再開する。

 遠江守護職の斯波氏との戦いは文亀元(1501)年、斯波氏は信濃の小笠原氏にも援軍を要請し、社山城(磐田市)、堀江城(浜松市西区)など広域に及んだ。本格的な戦いは永正7(1510)年からで、斯波義達は引馬城の大河内貞綱、三岳城の井伊直平との連合軍をくみして、結果的に7年間の長期戦となった。

 今川軍は刑部城・堀川城(同北区)志津城(同西区)を拠点にし、連合軍の侵攻は激しいものだった。永正10年に連合軍の最大拠点・三岳城が落城し終結したかに見えた。ところが永正13年、大河内貞綱は再び引馬城を占拠し、要請を受けた斯波義達も出馬し立て籠もったのだ。

 氏親は率いる今川軍は3万を数え、翌14年6月から引馬城攻めが始まった。その様子を連歌師宗長の『宗長手記』がリアルに記す。それは2カ月間にわたる攻城戦で安倍金山の金堀りが動員され、城中の井戸すべてが崩されたため貞綱、弟の巨海道綱、城兵らが討死・打ち捨て・生け捕られ、目も当てられないすさまじさであった。義達は近くの普門寺で出家し尾張へ送還、これをもって今川氏の遠江国制圧は完結するのである。

 浜松城北東域にある現在の引馬城跡は、市街地が進み大きく様変わりしたが、北辺の八幡宮境内地のおかげで、かろうじて曲輪と発掘調査により土塁が確認された。(静岡古城研究会会長 水野茂)

最終更新:6/11(日) 7:55
産経新聞